横浜のgreenpoint books & thingsで、qp・阪本勇「レンゲ」展を観た(〜3/29)。展覧会に合わせて刊行された2人の作品集『レンゲ』(私家版)も購入。会期は残り数日だけど、急遽お願いして『窓の観察』()も販売してもらうことになった。

qpさんの作品は、ラボでプリントしてもらったというデジカメ写真はよかったのだけど、水彩画のほうは正直どう捉えてよいのか分からない。このまえ観た「色ちゃんコミック展」の絵()にも同様の印象をもっていたので、会場にいた作家本人に疑問を投げかけてみた。以下は帰宅後のメールのやり取りから、僕の送信分の抜粋。qpさんには2004年11月に「デッサンなんてどうでもいい」という有名な発言があり、それを前提にして僕が、でもやはり(qpさんにとって)デッサンは必要ではないかと意見している。僕のそうした認識はたぶん、以前書いた「マゼンタ色の友だち」展の印象(2012年6月23日)から連続している。

自分ではディスっているつもりはないんですけどね。もともと期待していない人にはあまり言う気にならないし。
デッサンをしたほうがよいのではないかと言ったのは、外部の対象をそのまま写実的に描くというよりは、自分の頭の中で思い描いた像を追い求める(真理を探究する)ような姿勢があってよいのではないかという感じです。絵(を描くという経験)のことは分からないですが、たぶんデッサンというのも、いちど対象を自分の頭の中に入れて、それを再生産するという行為ではないかと思ったので。どうも最近のqpさんの絵は投げやりというか、紙の表面上だけのことになってしまっているように見えるんです。

投げやりというのは言葉を換えるとアクションペインティングっぽいということかもしれません。作為や理念を排して、とりあえず紙の上にあらわれたものに反応していくというような。

このまえ写真についてのフェティシズムをツイートしてましたけど、qpさんの写真がフェティシズムかどうかはともかくとして、僕はぜんぜん閉鎖性や排他性を感じないし、むしろユニークな個性として、世界の一面を見せてくれるというふうに思っています。
で、そこで内側に閉じてしまわないのは(あるいは閉じることで魅力的でありうるのは)、結局、写真というメディアが必然的に外部に向かっているせいもあると思うんですが(もちろんqpさんの客観的意識もあると思いますが)、絵画の場合は、まさに白紙に描いていくわけですよね。
たとえばアクションペインティングというのは、そうやって自分の作業だけで完結してしまうような絵画というメディアにおいて、意図的に外部性をとりこむようなことだったと言えるのかもしれませんが(よく知りませんが)、いずれにしても結局自分で絵を描くことには変わりないわけだし、「バランス少し崩す、けれどそれもある意味自分の中でバランス取ってることで、結局バランス取ってるだけなのかもしれない」というような問題がつきまとうことでもある気がします。
そう考えてみると、デッサンと言ったのは、(単に具象がよいということではなくて)外部/現実との接点をもつという意味もあったのかもしれません。たぶん抽象画のよい作品というのも、(表面的な美ではなくて)外部との関係を突きつめていった結果、ああなっているわけですよね。

qpさんは大きなお世話だと思っていそうだけど、僕のこうした口ぶりは、芸術家の創作の芽を摘んでしまうような行為になるのだろうか。僕自身が、こういったタイプの批判ならば望むところなので、他の人に対しても、つい遠慮がなくなってしまうのかもしれない。また批判というものについて、qpさんも同じような認識を共有しているのではないかと思い込んでいるところもある。『ゴダール全評論・全発言Ⅱ』(奥村昭夫訳、筑摩書房、1998)に、批評家ポーリン・ケイルとの対談での以下の言葉が載っているらしく、共感する。

ゴダール 私は自分の仕事が批評され、自分はどの点で間違っていたり正しかったりしたのかを知ることを強く必要としています。でもその場合、そのことの証拠が示される必要があります。私は自分ひとりで自分の映画を裁かなければならなくなることを恐れているわけです。私は批評されることを、ただし明白な証拠をもちいて批評されることを必要としているのです。かりに私が犯罪をおかしたとされるとすれば、私はあなたに、私にその犯罪をおかす理由があったかどうかを証明する証拠を示すよう求めるはずなのです。あなたが私の最新作について書いた批評は読みました。でも私には、あなたがあの映画を気に入ったかどうかはどうでもいいことです。私がほしいのは証拠なのです。
ケイル まさか。どうでもよくはないはずです(笑)。
ゴダール いや、どうでもいいことです。
ケイル そんな……
ゴダール いや、まったくどうでもいいことです。私が望んでいるのは、批評家たちがより多くの証拠を与えてくれ、それらが私に次の映画のためのアイディアをもたらしてくれるということです。こんなことを言って申し訳ないのですが、でも私はあなたの批評からは、私はポーリーンとは意見が合わないということ以外は、自分の次の映画のためのどんなアイディアも手に入れることができないのです。そして私とあなたの意見が合わないということそれ自体は、私の助けにはならないのです(拍手喝采)。

「レンゲ」展を観た後は、歩いて東京藝術大学馬車道校舎まで移動し、オープンシアターというイベントで無料上映されていた、デヴィッド・ロバート・ミッチェルアメリカン・スリープオーバー』(2010)を観た。アメリカの高校生の夏休みの「お泊まり会」を題材にした青春群像映画。イベントの告知を見て期待していたとおり、とてもよい映画だった。監督の長編デビュー作で、製作費は3万ドル、出演者はほとんど素人だというのが信じがたいほど、みずみずしさを湛えつつ映画としてうまく統制されている。青春映画自体をそれほど好んで観ているわけではなくて、会場で配布されたパンフレットの「新入生のための青春/学園映画入門ガイド」で数多く紹介されている作品も片手で数えられるほどしか観たことがないのだけど、いろんなタイミングが重なって観に行くことになった。青春とは。