1ヶ月前(7月2日)にqpさんに撮影してもらったポートレート写真が、他の人のも合わせて25人分、qpさんのホームページで公開された。トップページ一番右ののアイコンの先。僕の写真がいちばんカメラ位置が遠い(人物が小さい)。

撮影した時にはそれぞれの人の名前の載せ方を迷っていたようだけど、載せるかどうかも含めて、最後に一覧として載せる今のやり方でうまくいっている気がする。ある種の写真の見方においては、写っているのが誰だとか撮影地がどこだとか尋ねること自体が素人臭いというか、極端にいえば下品とさえ思われてしまいかねない風潮があると思うのだけど、たしかに「名前」に囚われて写真の「実質」がないがしろにされてしまうという現実的な状況への憂いは僕も共有する一方、やはりそうした「名前」の記録性・記号性まで含めてこその写真ではないかという気もする(そういう気がするのは、僕が建築写真を扱うことが多いせいもあるかもしれない。「名前」を外すのもそれはそれでけっこう暴力的なことにもなりうる)。
今回のqpさんのポートレートは「名前」が「実質」を打ち消すことなく、むしろ双方がうまく関係して、作品に広がりをもたせていると思う。写っているのは、いつもの街中や公園でのスナップショットと違って、qpさんと交友関係がある人たちで(職業的にも年齢的にも限られた範囲の)、それも1人につき数百枚からセレクトされているだろうから、やはり色濃くqp調であり、それぞれの写真は撮る人と撮られる人の私的で固有な関係に根ざしているに違いない。qpさんは写真の内容がどうこう以前に、ポートレート撮影を口実にしてふだん会わない人たちに会いに行けるのが楽しいと言っていたけれど、おそらくそのような心性も、撮られた写真の内容と無縁のことではないと思う。
しかし一方で、そういった写真を完全に「私写真」としてまとめてしまわないのもqpさんらしい。言ってみれば「繊細の精神」に対する「幾何学の精神」の発露であって、どこか客観性を求めようとする。それは1点1点の写真にも見て取れるかもしれないけれど、ここでは組写真として全体を位置づける手つきにより強くうかがえる。つまり、最後に一覧として、それぞれの人の名前を並列に載せることによって、それぞれの人はqpさんとの私的で閉じた関係が相対化され、自律的・社会的な存在として見えてくると同時に、他の24人とのネットワーク的な関係の広がりを生成する。その関係の広がりは、写真を見る人それぞれが、どの名前を知っているか、自分がどの人とどういう関係をもっているかによって、濃淡をともないながら多様に現れてくる。それはきっと世界で生きているということにも重なる豊かなことなのだ(たとえ誰一人知らなかったとしても、名前があるのとないのとでは写真を見る体験は違ってくるだろうし、少なくともマイナスにはならないと思う)。qpさんが意図しているかどうか知らないけど、5×5で25という切りのよい数字/構成も、幾何学性を強め、写真の想像的な広がりをより確かに感じさせることになると思う。
qpさんの写真が極めて私的でありながら同時に客観性も志向するということは、『窓の観察』()の著者紹介でも書いたけれど、それは写真や絵画などの作品単体に限らず、より広い意味でのqpさんの活動にも見いだせると思う。今年の1月に開かれた「であ、しゅとぅるむ」展(名古屋市民ギャラリー矢田)では、いちおう僕が監修という立場で、qpさんのドローイング集のネットを介した交換企画を紹介したのだけど(2012年12月3日)、その時にも同じようなことを考えていた。以下、展示の様子を紹介したqpさんのブログと、僕が展覧会のカタログに寄稿した写真とテキスト。


qpさんは自分の世界観を色濃く持っている一方で、作品世界を自分の意識のなかで閉じることに躊躇する。その自他の拮抗や交錯が、絵でも写真でもqp作品の魅力の一因だと思うのだけど、この小さなドローイング集のあり方もそれに似て、自分の世界と他人の世界を新しく織りあげていく装置のようなものだ。数年来、qpさんと面識がないまま作品に惹かれてブログを見ていた僕は、あるときその小冊子と手持ちの写真との交換が呼びかけられている()のを目にして、それに応じてみる気になった。お互い人間関係の構築にはあまり積極的ではないほうだから、そうした物の交換という結び目がなければ、たとえいつかどこかで言葉を交わす機会があったとしても、その場限りになっていたかもしれない。
この一連の試みがとりわけ面白いのは、たとえばデジタルとアナログ、電子媒体と紙媒体、ヴァーチャルとリアル、複製と固有性、物質と記憶など、ふだん対立的に捉えられやすいものが入り混じって、新しい関係を生んでいるからだと思う。まずqpさんの手描きのドローイングがデジタルのテクノロジーやシステムによって小冊子として複製される。そしてそれがインターネットの広がりと近接性によって、時には見ず知らずの他人につながる。一方、そこで交換される写真もまた、複製技術に基づきながらも、各々の記憶や経験が定着した固有の物にほかならない。各自の手元に届いたドローイング集は、そのような特別な物=写真と交換した物だからこそ、その性質がいくらか乗り移り、それぞれの持ち主においてまた固有の存在として生きられるのではないだろうか。ZINEという装置が私的で閉塞した世界を醸成しがちであるのと対照的に、qpさんの『WERTYUIO2』は仮想と現実の空間を行き来して、自他が交錯する起伏に富んだ世界を織りあげる。(長島明夫)