『映画空間400選』の発行日。立ち寄った本屋では、建築のコーナーと映画のコーナーの両方で平積みにされていた。この本のたたずまいは建築の台で馴染んでいるのに対し、映画の台では異物感がある。ただ、それはむしろ意図していたことで、デザイナーの内川さんには編集方針に的確なかたちを与えてもらい、重すぎず軽すぎず、狙いすました本の現れになったと思う。
この本では内容と形式の関係を特に気にかけていた。もともと『建築と日常』No.1の記事をきっかけにINAX出版の高田さんに声をかけてもらった企画は、それを進めていく前提として、建築界での映画の受容のされ方に対する違和感と、同時に映画の基本的なガイドブックへの潜在的な需要を感じていたことがあった(『建築と日常』はほとんど伝わる人に伝わればいいというようなスタンスだけど、この本はもっと面的な影響をおよぼしたいという意識があった)。たくさんの映画をそれぞれ短い文で紹介するという形式は『建築と日常』の記事から引き継いできたものだけど、それが「映画と空間の基本書」として、長く広く、建築外の様々な属性の人も含めて読まれるためにはどうすればよいか。その手だてのひとつは、見えがかりの現在性、恣意性を消し、一過的でない形式性をまとわせることだろう。
例えば編集の初期の段階では、対談やインタヴューのページを作ったり(そういった企画の形式は「異なるジャンルの接続」という雰囲気を出しやすい)、400本のセレクトをもっとキーワードごとにカテゴライズしたり(例えば「家族」や「郊外」など)という案もあったのだけど、結局そうした現在性や恣意性が表面に表れる形式は避け、テキストはすべて執筆形式として、(実際は恣意でしか決まりえないはずの)400本を製作年順に均等なフレームで並べ、キーワードは各作品の下位に、必要に応じて複数位置づけることにした(それは各作品を単一のワードに従属させたくないということでもあった)。『映画空間400選』という書名も、数多くあった案のなかで最もドライで即物的なものだ。
とはいえ単なる400本のカタログで完結させてしまっては、やはり「映画と空間の基本書」として不十分だろうし、本の構成として面白くない。400本の作品紹介を全体の明確な主調としつつ、そこにどうやって歴史的な資料性や読み物としての面白さを含み込ませていけるかが問題になっていた。主調となる作品紹介自体、ひとつの作品に対して単一の短い切り口を見せることしかできないにしても、様々な分野の様々な指向を持った人たちに執筆してもらい、それらが入り混じることで、本全体としてのダイナミズムや開放性を獲得できるはずだと考えた。
400本のセレクトは、まず結城さんが、個々の作品における空間というテーマとの関連や作品そのものの魅力、映画史的重要性、そして全体における年代や地域、監督の重複などのバランスを考慮して、仮のリストを作成した。そして執筆依頼の段階では、そのリストを基にしつつ、それぞれの書き手の興味や映画の見方に対応して作品の追加や差し替えを行い、さらにそれを受けてまた結城さんが400本の全体的な調整をするという作業を細かく繰り返しながら、全体での形式的なあり方と、個々のテキストの内容的な密度とを両立させることを目指した。執筆者の皆さんには字数の制限などうるさく注文をつけてしまって恐縮したけれど、一方で、内容を形式の抑制によってさらに引き立てるということもできなくはない気がする。
個別の作品についての短文では触れられないような、しかし「映画と空間の基本書」にあって然るべき映画を見る視点については、これも一定のフレームや形式性を持った16本の「コラム」として、様々な分野の人たちに書いてもらった。それぞれのテーマは400本の紹介文と同様に、本の全体性と書き手の視線の両方から決められている。また、より情報性の高い内容は10本の「資料編」(この表記はそれらを括るのにあまり的確ではないけれど、うまい言葉が見つからなかった)として、建築と直接的に関係する映画の紹介や、映画史的な切り口の解説をしてもらった。「コラム」と「資料編」は、本の主調である400本の時系列の流れをなるべく分断しないように、かつ相互に影響してダイナミズムや開放性を生むように、それぞれ適当と思われる位置に挿入している。そして結城さんが精神をすり減らして作った年表は、映画史115年を空間的な視点から眺めたもので、直接的な情報としての意味はもちろんのこと、それを巻頭に置いたのは、後に続く400本が必要以上にバラバラに(カタログ的に)見えてしまわないように、本全体の方向性を擬似的に強める目的があった。(つづく)