12時にJRの両国駅で待ち合わせをして、近くのちゃんこ料理屋に入った。店内に原寸の土俵(屋根つき)がある店。キッチュと言えばキッチュだけど、俗っぽさの妙な迫力があった。土俵のスケールを間近で体験できたのは、直後の、2階席から土俵を眺める大相撲観戦にもいい影響を与えることになったのではないかと思う。大相撲のチケットを見せると、グラスビールが1杯サービスになった。

大相撲を実際に観たのは初めてだったけど、席がやや遠かったせいもあってか、「スポーツ」として見るならテレビ中継のほうが見やすいと思った(取組の写真は200ミリの望遠レンズで撮った)。これはプロ野球でもそうなのだけど、なにかひとつの見せ場があったあと、ついもう一度リプレイが見られるという感覚を抱いてしまう。しかし実際にはそれはありえないわけで、一回性にこそ生々しさがあるはずの運動が、それを現実に目にすることによって、むしろやけにあっけないものに感じられてしまう。テレビ中継はそこを満たしてくれる、というか長年にわたるテレビ観戦によって、そういう感覚の土台が築かれてきたということだろうけど。



とはいえ、今日の大相撲観戦はとても楽しかった。現場でしか分からないことは、「空気」というようなものの他にも数多くある。出番を待つ行司も力士と同じように土俵下に控えていたり、取組が進むにつれ行司の身なりが変わっていったり、審判員は砂よけのために膝掛けのようなものをしていたり、上位の力士にはその都度それぞれ専用の座布団が運び込まれたり、懸賞を宣伝するアナウンスにそこはかとないユーモアがあったり。そうした行為はすべて土俵上の取組を中心に動いていて、次々と中心に向かっては離れていく。
建築としても、言うまでもなく幾何学的な平面と断面を持ち、中心性の強い空間になっている。そうした建築の中心性は象徴性を帯び、その建築の内部において視覚的な求心力を持つというだけでなく、外部にまで広がる想像的な求心力を生む。つまり、取組に臨む力士たちが中心の土俵に向かって歩いていくのと同様に、今日の大相撲を観るために各地からこの中心に向かって人が集まっているということも意識させやすい気がする。この中心がある共同体の中心としても感じられる。
中心は空間性だけでなく時間性も帯びていて、取組の後半に向かって求心力を強めていく。昼過ぎにがらがらだった館内は徐々に人で埋まっていき、取組を成立させる様々な様式的行為も、その密度を高めていく。
しかし、もちろん空間は中心によって完全に統制されているわけではなく、自分が土俵上の取組から意識を緩めれば、館内でも意外と多くの人が思い思いにざわざわと動いているのが感じられる。注目の力士が土俵に上がったり、好取組になると、そのざわざわが中心に向かって収縮する。その緊張と緩和の振幅は結びに向けて狭まっていく。

幾何学形態の合理的な建築と、そこを動く人間の身体とが、生き生きとした空間を発生させる。その遊興の大空間には生きた文化を感じたけれど、そもそも相撲の魅力自体、そうした理性と身体の融合によって成り立っている。幕下から横綱までの番付や15日間の対戦方式などは、長い時間の合理化を経た洗練されたシステムだろう。そして近代的な合理性によって説明できないような、様々な事物における様式も、現在を支えるシステムとして現れている。その上で、そうしたシステムに基礎づけられつつも完全に規定されることはなく、力士たちのまさに今の身体のぶつかり合いがある。