今回のイベントに際して、山田脩二さんには広報用に2点の写真の使用許可をいただいた。

1点は新宿駅西口広場で反戦フォーク集会が開かれたときの写真で、山田さんの代表作でもあり、多木さんが「出来事のかたち──山田脩二の 『日本村』について」(『アサヒカメラ』1977年8月号)で論じてもいる。この写真について、上記のイベントサイトでは多木さんによる解説を抜粋してみたけれど、山田さんの自伝では撮影した時のことが次のように書かれている。


地下広場での連夜のフォーク集会は日増しに参加者が多くなり、ついに管理する警察側は、弾圧、撤去、排除のために突然〈広場〉を〈通路〉と名前を変更してしまいました。
 当然、通路に立ち止まって歌をうたい、聞いている人たちは排除の対象物になり、大混乱となりました。当時、警視庁認可・発行の黄色の腕章をしていない、フリーカメラマンで自主的な撮影者・山田脩二も排除物となり、気がついた時、容赦ない屈強な機動隊員にとり囲まれて二台のカメラのフィルムはぬかれ、道に投げ捨てられ、全身、ボコボコにタタキのめされ、無残な姿の痛い手応えでした。
 気をとりなおしてバッグの中から残った一台のカメラを取り出し、罵声と雑踏、混乱の中でふとため息をつき空を見上げると、人気のない夜のデパートの窓ごしの明かりに気づきました。裏口から無断でしのび込み、最上階の階段ホールで、窓ごしに真下の光景を撮影しました。一瞬、
「あー、負けて逃げている──」
 と、悔しさと虚しさでいっぱいでした。が、二枚のガラス(窓とカメラのレンズ)をとおして撮った一枚の生々しい光景が、のちのちまで、音もなく当時を語る写真として、くりかえし使われてきました。
───山田脩二『カメラマンからカワラマンへ』筑摩書房、1996、pp.97-102

これはひとつの象徴的なエピソードだとしても、一般に対象物から無限遠の超越的・非実在的な位置で撮ることが望まれるような「建築写真」というジャンルにおいて、山田さんの写真はそれとは一線を画し、主体の息づかいを感じさせる。木村敏風にいうと「もの」ではなく「こと」を撮るということ(多木さんが「出来事のかたち」と書くこと)は、例えばアンダース・エドストロームさんの「瞬間と瞬間のあいだを撮る」(2012年3月11日)とも繋がるだろう。今回は『多木浩二と建築』関連での依頼になったけれど、山田さんの写真や〈つくる〉と〈生きる〉の重なりは、『建築と日常』にとって興味深いものに違いない。山田さんについては、『山田脩二の軌跡─写真、瓦、炭…展』(兵庫県立美術館神戸新聞社、2006)に寄稿された石山修武さんの文章をネットで読むことができる。

広報用のもうひとつの写真は、坂本一成設計《水無瀬の町家》(1970)で、これは今回の特集との関連性が高いという理由で使わせてもらうことになった。雑誌『建築』1971年5月号のために撮られた写真。山田さんによれば、写っているのは設計者ご本人らしい。