写真を撮りながら近所を散歩。以下3点。
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数年前から妻が飼っていた文鳥が先月、病気で死んでしまい、駅前の小鳥屋でまた生まれて間もない文鳥を買ってきた。
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ある企画で、坂本一成さんと塚本由晴さんに対談をしていただいた。実質的には僕がおふたりにインタヴューした感じだろうか。僕としてはおふたりの師弟対談は2011年に『建築に内在する言葉』の刊行記念トークイベントとして池袋のジュンク堂で話していただいて以来だけど(→)、その前後もたぶんきちんとした形式の対談というものはなかったのではないかと思う。『精選建築文集1』という書籍に収録して出版予定。
おふたりの写真は紙面で使うつもりはなかったのだけど、いちおう記念撮影的に撮らせていただいた。しかし机を挟んで撮ったものはなんとなく構図が間延びしてしまったので、個別の写真を拡大/縮小など調整しながら合成。フルオートで撮っていた頃は、室内での人物写真は妙にのっぺりしてうまく撮れないことが多かったのだけど、これはきちんと立体感を捉えて写っている。
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写真を撮りながら近所を散歩。はじめて歩く道。
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『八束はじめインタビュー 建築的思想の遍歴』(鹿島出版会、2021年)を読んだ。八束さんの芝浦工業大学定年退職(2014年)をきっかけに企画された本で、八束さんの学生時代からの「建築的思想の遍歴」をたどる。インタビュアーとしてクレジットされているのは八束研出身の金子祐介さん。以下は冒頭、その金子さんの発言。
こうした昨今の状況を俯瞰してみると、建築界で扱われたいろいろな歴史的事象が、その本質への理解を欠いたままに表層だけが漂い残っているのではないのかと懸念されます。
その背景には、読み手の知識量の低下ということもありますし、「売れるもの」を先行してつくろうとする出版界の問題も大きいと思います。ただ、このどうしようもない状況を憂いていてもしょうがないので、“八束はじめ”という「建築」に対して思想を投影したであろう人にお話を聞いてみることで、ここ数十年の日本の建築史界の思想的な状況の動向を俯瞰してみてみたいわけです。(pp.6-7)
現状に対する金子さんの批判意識は強い。僕自身はそれに共感するところとしないところがあったけど、これだけの強い思いで(入念な準備をして)踏み込んで問いかけているからこそ、八束さんから多くの言葉を引きだせているのだろう。やはりインタビューはバランス感覚も大事だけどすこし偏ったくらいの前のめりな思いも大事だと思わせられた。教え子と向き合う八束さんの誠実さと聡明さも感じられる。
建築が宙に浮き始めたのは、1970年代の後半以来でしょう。それ以前、メタボリズム時代の建築家たちは建築論を書くわけですよ。黒川紀章しかり、磯崎新しかり、菊竹清訓しかり、槇文彦しかり。篠原一男だってそう。日本に限らず海外の建築家も。今の建築家もよく書いたりしゃべったりはするわけですけれども、じつに根拠のないことを個人の感性の名の下に平然と流通させている。学生のほうも、そもそも本を読めなくなっている。だから無根拠な物いいが流通してしまうのですね。思考の崩壊が起こっているという危機感を覚えます。根拠を聞いてみても、学生だけでなくほかの教員ですらも、はかばかしい答えは返ってこない。面白いと思うからとか、それは答えではない。(p.112)
この発言はいかにも八束さんらしい。僕も大部分共感するものの、しかし後の世代が前の世代の影響をまったく受けずにそうなっている(じつに根拠のないことを個人の感性の名の下に平然と流通させている)はずはないのだから、新旧世代は対照的であるとともに連続的でもあるに違いない。つまりメタボリズム時代以前の建築家の建築論のなかに、現在の状況に繋がるなにかが見いだせるのではないか。僕がいま遅々として進めている仕事は、そのあたりに触れるものかもしれない。
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鎌倉山のink galleryで「ジョージナカシマ展」を観た(〜4/3)。建物はもともと吉村順三が設計した住宅(1974年竣工、中村好文がギャラリー用に改修)だから、もちろんジョージナカシマの家具とも調和する。モダニズム調の母屋と半地下のワンルームと和風の別棟(中村外二工務店)の3棟が、敷地の傾斜を生かして立体的に配置されている。その一見無造作にも思える構成が、なんとも言えない親密さと大らかさのある空間を生んで心地よい(構成だけの問題ではないかもしれない)。敷地は鎌倉山をずいぶん長く登ってきたところで、その連続性のなかに、この開けた芝生の庭が位置づけられている。敷地内で一度低いところをくぐってから庭に上がる構成が、余計にこの庭を山のてっぺんのように感じさせているだろうか。以下、写真6点。
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kodomohonnomori-kobe.jp
安藤忠雄さんが設計して話題になっている《こども本の森 神戸》の本棚、絵本みたいなものを面で見せるアイデアはよいと思うけど(一般に絵本は薄くてサイズがばらばら、タイトルの情報量も少ないので、背表紙だけ眺めて本を選ぶのは骨が折れる)、その棚を上に積んで床から天井(高いところで8〜9mほど)まで壁面を埋めるという建築の手法はうまくいっているとは思えない。本というものはそのような距離や角度で眺められるようにはできていないから、本を選ぶためのディスプレイとしての機能性は低い。おそらくこのデザインの主眼は、そうして個々の本の実体を見せることにあるのではなく、数や量やヴァラエティをもって、本を記号的に見せることにあるのだと思う(壁面を覆う本は「手にとって読んでもらえるよう同じ本を下段にご用意しております」ということだけど、これだけの数の本をすべて2冊ずつ所蔵し、さらに壁面の本は定期的に入れ替えていく想定だとすると、この本棚のデザインがのちのち書庫の容量や館の運営費を圧迫して、より多種の本を来館者に提供するという仕事を制限してしまわないかという気もする)。
安藤さんについては以前、《光の教会》の原寸模型において、現実の宗教建築を複製可能な存在に変換していることへの疑問を書いたけど(2017年11月20日)、この図書館での本の扱いも、それと似た疑問を抱かせる。「煉瓦がアーチになりたがっている」というルイス・カーンの有名な言葉にならって言えば、きっと本はこのように置かれたがってはいない(リンク先の写真(→)が分かりやすいかもしれない。細い廊下のような場所で高い天井近くの棚に置かれた本には、来館者との間にどのような関係が生まれることを期待されているだろうか。下方の棚から上方の棚まで、棚の中ではいずれもやや上向きの同じ角度で本が置かれているらしいことも、個々の本と人との具体的な関係への意識が薄いことをうかがわせる)。施設として読書の大切さをうたう一方で、実際の建築空間としては、「読まれるもの」としての書物の本性や「読まれてきたもの」としての書物の歴史とは相反する別の原理が支配的であること。そういうちぐはぐさを敏感な子どもは見透かしてしまわないだろうか。*1
下は建築家の谷口吉郎が本の装釘について語った言葉(谷口には自著(→)を中心に装釘の仕事もいくつかある)。本というものに対してこのような水準の認識を持っている人にとっては、この本棚のデザインの粗っぽさにはどうしても抵抗を感じてしまうのではないかと思う。
しかし、装釘とは、そんな表紙に描かれるデコレーションのみのことではない。書籍の大きさ、内容の活字の組み方や紙に至るまでが問題となる。特に表紙については、その材料、それに適当した製本の方法、表題の文字の配り方。絵があれば、それとの取合せ方、その色の調子。更に表紙ばかりでなく、見返し、扉、奥附にまで造形的な注意が払われねばならぬ。
そんな視覚的な図案ばかりでなく、本を手にした時の感触、重さの感じ、そんなものにも気を配る必要がある。特に大切なことは、書物の内容や、著者の人柄に、装釘の意匠がしっくりと調和しなければならぬ。同時に出版所の性格にも合致せねばならぬ。なお、書籍店の店頭に並べられた時の広告的な意味。読者の書架に並んだ時の親しさ。持運びする時の耐久力。それから、書物の定価にも応じなければならぬ。廉価本として、普及本として、豪華本として、それぞれ適当した意匠がある。
装釘とはこんな書物の造形的設計である。だから、有名な画家の図案だけが、必ずしも最上の装釘ではない。菓子箱や化粧品の包装のように、図案家によって、けばけばしく飾りたてられた表紙だけが、必ずしも美しい装釘ではない。
- 谷口吉郎「環境の意匠」『清らかな意匠』朝日新聞社、1948年(『谷口吉郎著作集 第二巻 建築評論』淡交社、1981年)
以下、追記。
安藤忠雄は建築の芸術性にこだわるあまり一般的な実用性と軋轢を生む、という場合、僕自身も前者の芸術性を尊重する側に立つことはあると思うけど、この本棚に関しては、むしろ芸術性へのこだわりのなさが、ああいった流行的なデザインの採用に繋がっている感じがする。https://t.co/mOMuBQ2DhJ
— 個人雑誌『建築と日常』 (@richeamateur) 2022年8月15日
おそらく「本を手に取れない」は問題の本質ではないと思う。例えば通りに面した書店のショーウィンドウは、そこに並べられた新刊書や稀覯本を手に取ることはできなくても、それらの本にとって誇らしく晴れがましい場所であるはずだ。件の本棚はそうは感じられないということ。https://t.co/v7ktaHasYo
— 個人雑誌『建築と日常』 (@richeamateur) 2022年8月15日
*1:かつて大学で設計製図を修めた立場から言うと、あくまで本を物量として見せるのなら、たとえば閉架の書庫を(そこでの職員の作業ともども)どこかから覗ける構成にするのはどうだろうか。表と裏の領域の重なりが建築として面白くなりそうだし、本のあり方としても教育のあり方としても健全な気がする。