過ちを犯した人たちをたしなめるとき、われわれには、善意より自惚れのほうが強く働く。長々とお説教はするものの、相手の間違いを正そうというより、自分は別物、と言ってきかせるのだ。
- ラ・ロシュフコー『人生の知恵──省察と箴言』吉川浩訳、角川文庫、1968年、p.21
7月14日にオリンピックの開会式の概要が発表されて以降、小山田圭吾の「いじめ問題」が世間で騒がれている。事実を十分に把握していない時事的なトピックについてはなるべく語らないようにしているのだけど、僕自身、長いあいだ小山田氏に対して思い違いをしていたことに気づかされたり、常日頃SNSや現代のメディア環境について抱いていた問題意識と重なることもあって、断続的にツイッターで言葉を発することになった(下記リンク先、一連のツイートがスレッドでひとつながりになっている)。
今回の一件によって仮に世の中から「いじめ」と呼ばれているものが減ったとしても、それと同質のドロドロした嫌なものは醸成され続けるのではないだろうか。「○○をするといずれひどい罰を受けることになるから○○はしてはならない」という論理で秩序づけられる社会は決して良いものではないと思う。
— 個人雑誌『建築と日常』 (@richeamateur) 2021年8月4日
断片的な言葉はあらためてこのブログでまとめようという思いもあったのだけど、今後もまだなにかツイートするかもしれないし、ツイッターの言葉を異なる環境に移すのはやはりきちんと考えだすと簡単ではないので、とりあえずこのままにしておくことにした。