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昨日、東京都現代美術館の近所を歩いたなかで撮った写真。現実の迫力がある。建物(壁面)を画面中央に置き、それが屹立する感じで撮っているけど、視線をすこし左にずらし、かつて隣にあっただろう建物の存在を意識しながら、その不在との関係のなかで見せるような撮り方もあったかもしれない。

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もうずいぶん会っていなかった大学院時代の友人2人に誘われ、東京都現代美術館で「ライゾマティクス_マルティプレックス」、「マーク・マンダース──マーク・マンダースの不在」、「Tokyo Contemporary Art Award 2019-2021 受賞記念展」(風間サチコ、下道基行)、「MOTコレクション コレクションを巻き戻す」を観た(〜6/22)。いくぶん気になりつつも一人では足が向かなかっただろう展示。上の写真はマーク・マンダースの作品《マインド・スタディ》(2010-11)。

ここ最近、家で観た映画。最近と言っても数ヶ月前のものも含むので、すでにあまり記憶が定かでない。
チャールズ・チャップリン『モダン・タイムス』(1936)、同『チャップリンの独裁者』(1940)、同『チャップリンの殺人狂時代』(1947)、ロブ・ライナー『恋人たちの予感』(1989)、周防正行『シコふんじゃった。』(1991)、アッバス・キアロスタミ『風が吹くまま』(1999)、今岡信治『したがる先生 女教師N』(2002)、堀禎一『不倫団地 かなしいイロやねん』(2005)、クエンティン・タランティーノ『デス・プルーフ in グラインドハウス』(2007)、ウディ・アレン『ミッドナイト・イン・パリ』(2011)、阪本順治『北のカナリアたち』(2012)、いまおかしんじ『こえをきかせて』(2018)、山下敦弘『ハード・コア』(2018)。

エリック・ロメール『モンソーのパン屋の女の子』(1963)を観た。23分。短編と長編は量だけでなく質的にも区別されるものだろうか、短編らしい短編だと思う。具体的であり抽象的でもある人間/都市のスケッチに、ロメールのモラリスト的性格を思う(『モンソーのパン屋の女の子』は連作「六つの教訓話 six moral tales」の第1作)。以下、最近買って読み始めた本(大塚幸男『フランスのモラリストたち』白水社、1967年、p.14)より。

──つづめていえば、モラリストとは、人間をその日常生活において観察し、描写して、とりわけ人間の心理的動きを直観的に探究し、永遠の人間(永遠に変わらない人間)のあり方、人間の条件を示して見せ、それによってムルス[※一個人の話し方ないし行動の仕方]を矯正しようとの配慮ないし念願をも内に秘めている作家のことであり、究極のところ、言葉の最も深く高い意味において、人間いかに生きるべきかの問題を探究し、その問題に思いをひそめる人々のことである。
 モラリストの作品の形式は、多かれ少なかれ短く、最も短いのは一行、長いのは数ページ以上におよぶこともあるが、いずれの場合にも圧縮されて、彫琢の域に達しており、示唆的で、ゆたかな瞑想の種となるものばかりである。

「死者の仕事を思う──ある建築写真集への批判」というタイトルでこのブログの記事(4月6日)をnoteに転載してから1週間、これまでのテキストでもっとも多くの♥が付いた。
note.com
もしそれぞれの固有名を伏せずに記していたら、♥は増えていただろうか、減っていただろうか。それは分からないが、テキストの閲覧数は少なからず増えていたと思う。固有名を伏せたことに唯一の明確な理由があったわけではないけれど、それによって文章が宙吊りになり、ネット環境での受容のされ方や流通の仕方が変わってくるだろうことは想定していた。
かなり辛辣な文体は僕の感情の表れだと言えるけど、そこにさらに自覚的に感情的な表現を上乗せするような意識もあった。全体に力をみなぎらせて書き切ることで、読んだ人が自分も何か口を出したくなるような文章ではなく、無言になるような文章を望んでいたかもしれない。

すでに多くの人が言っているとおり、放送中のドラマ『大豆田とわ子と三人の元夫』がよい。ストーリー設定やキャスティング(役者の実力や役柄との相性よりも世俗的な人気度を優先する)だけが特化されるというテレビドラマにありがちなことがなく、コミカルでありながらそれぞれの人物や場面が確かな実在感をもち、様々な要素や部分/全体が必ずしも主従関係を結ばないまま響き合っている。的確に表現できないけど、いかにもトレンディドラマ的な非現実的な設定(バツ3、オシャレな職業、それなりにリッチな暮らし……)や、毎回冒頭にその回のできごとを予告したり主人公がカメラ目線で話しかけたりするフィクショナルな側面が、ドラマのリアルな部分をうまく引き立たせているように思える。
去年『コタキ兄弟と四苦八苦』を観ていたときには「テレビでも深夜ならこれだけのことができるのか」と思ったけど(2020年4月11日)、『大豆田とわ子と三人の元夫』は深夜ドラマにしばしば見られるサブカルっぽさもなく(あるかもしれないがそれに寄りかからず)、「ゴールデンならこれだけのことができるのか」と思わせる(2作の間に観た『MIU404』は『コタキ兄弟と四苦八苦』と同じ脚本家だったけど、「やはりゴールデンだとこうなってしまうのか」という印象だった)。ポップなものの豊穣さ。脚本(ストーリー/セリフ)、キャスティング(単に適材適所というだけでなく、有名/無名あるいはプロ/非プロを組み合わせるその振る舞いまで含めて)、演出、演技、音楽、思いつくかぎりの要素において非の打ちどころがなく、まったくよい意味で完成度が高い。
最初観たとき、どことなく岡本喜八の映画『江分利満氏の優雅な生活』(1963)を思い起こした。さすがにそれは僕の偏向だと思ったけれど(そもそも映画の内容もあまり覚えていない)、ドラマを観ているうち、その社会その時代における平均人・常識人の生きかたを浮かび上がらすという点で、似ているかどうかはともかく共通するところはある気がしてきた。とわ子の平凡な真っ当さが尊い。

新宿のSOMPO美術館で「モンドリアン展 純粋な絵画をもとめて」を観た(〜6/6)。モンドリアン(1872-1944)は建築の分野でもモダニズムの象徴として語られる画家だし、一度まとまった量で観てみたかった。印象と抽象が混じるような初期の作品に惹かれる。

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  • 《乳牛のいる牧草地》1902-05年

後年の有名なコンポジションのシリーズも、こういう初期からの変遷のなかで見ると印象が変わってくる気がする。一般に単純な要素を構成することで成り立つ作品は、それぞれの上手い下手はさておき、作り手があたかも万能の創造主のように感じられるけど(卑近な話、自分で雑誌のレイアウトをしているような時でも)、少なくともモンドリアンの最初はそうではなかった。むしろ反対に、主体の外部の自然や神が絶対的なものとしてあったらしい。そのことが後期の作品とどう関わるのかはよく分からないけれど、同じデ・ステイルのグループで似たように見えても、たとえば建築や家具の具体的な部材を前提にしたリートフェルトの作品とは根本が異なるのではないだろうか。建物の絵やリートフェルトの椅子(5脚、豊田市美術館所蔵)もあったので、建築の人にも薦められる展覧会だと思う。SOMPO美術館の後、豊田市美術館に巡回。

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3年ぶりくらいでCDを買った。タワーレコード渋谷店は5年振り(2016年7月5日)。せっかくだし、すこしお金を払ってでもタワレコのあの黄色い袋に入れてもらうかと思っていたら(ノスタルジー)、なにも聞かずに入れてくれた。無料配布が可能なバイオマス素材25%以上で作っているらしい。
今月発売の『別冊ele-king 永遠のフィッシュマンズ』は、当事者や直接の関係者の言葉以外では、映画監督の朝倉加葉子という人の文章に迫力があった。「今聴くにあたって「90年代の閉塞感が」とか「同時期に音響派があったり」とか、そういう背景の情報も一切必要ないように思った」というくだりは、そこまで特集号を読み進めていた僕にはまったくそのとおりだと思われた。当時のフィッシュマンズに関する具体的なエピソードなどは知りたいけど、社会的・時代的な背景は必要ない。評論を読むなら音楽そのものと向き合った評論を読みたい(といって、技術的で専門性が高い文章はそれはそれで読み飛ばしてしまったりするのだけど)。
『別冊ele-king 永遠のフィッシュマンズ』には、1年前(2020年6月17日)にブログで引用した佐藤伸治のインタヴュー記事も収録されていた。フィッシュマンズ/佐藤伸治についてはいつか自分なりの文を書くことができればという思いがもうだいぶ前からあるけれど、たとえば建築や映画などと比べても格段に、自分は音楽を語る言葉をもっていない*1。だからもし僕が何か書くとしたら、やはり歌詞を軸にせざるをえないだろう。それは音楽を語るのに不十分だと思う。ただ、歌詞といっても僕はその言葉を文章として読んだわけではなく、20年近くの時間のなかで音楽として聴いてきたのだから、その自分の体験から離れずに忠実でいられれば、たとえ直接的には歌詞をめぐって書いたとしても、そこには自ずと音楽が含まれているのではないかと思ったりもする。
それはフィッシュマンズの、佐藤伸治の音楽がそういうものだということでもあるかもしれない。「とにかくメロディと言葉の繋がりに必然性を感じる。言葉がいいんだけど、なんかメロディはちょっと違うんだねみたいな感じがまったくない。」(茂木欣一インタビュー、『別冊ele-king 永遠のフィッシュマンズ』)。そういえば10年前にこのブログでもそんなことを書いていた(2011年4月27日)。フィッシュマンズの音楽の有機的統一。

*1:それは残念なことだ。でも音楽を語る言葉をもたないのは、もしかしたらよい面もあるかもしれない。建築や映画では、その作品を体験している最中から、その作品を語る言葉が浮かんでくることがある。しかしその言葉が作品から生まれてきたものならともかく、もともと自分の中にあった枠組みに作品を当てはめるようなものだと、作品を不当に限定してしまいかねない(たとえばホン・サンスの映画を観るとき、その危険性を感じる)。音楽の場合、よくも悪くもそういうことがない。

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写真を撮りながら近所を散歩。ふだん散歩で撮った写真はその日のうちに適当なものを選んでツイッターにアップする。それでしばらく経ってからもう一度選びなおし(だいたい同じものにしてしまうことが多いけど)、このブログにアップする。ただ、今日の写真はツイッターにはアップしていなかった。撮った当日は適当と思える写真がなく、上の2点も、わりと安易に撮ってしまったという認識だった(何かを見つめる感じで水平垂直の視線で撮ると、なんとなくそれらしい写真になる)。それなのにここでアップしているのは我ながらどういうわけだろうか。時間が経ち、写真単体をより客観的に観られるようになったという場合もあれば、当事者意識が薄れ、写真を観る目が甘くなったという場合もあると思う。

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写真を撮りながら近所を散歩。建物は動かないから写真に撮るのは簡単だという言い方があるけれど、その真偽はともかく、やはり動くものを撮るのは僕には難しい。上の写真はわりとうまくいっていると思う一方、下の写真はタイミングを外していると思う。自然な動きで歩いている人でも、ある一瞬を写真に撮ったとき、その体のあり方が不自然に見えてしまうのは、なんとなく不思議な気もする。現実の動きをいかに一瞬に凝縮させるかは、写真以前の昔から彫刻や絵画のテーマでもあっただろう。下の写真のように、人物がメインになっていなかったり複数いたりする場合、よいタイミングというのは狙って撮れるものなのだろうか、それともある程度連写して、そのなかからよいと思えるものを選ぶべきなのだろうか。

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午後6時半ごろ、雨上がりに家のテラスから撮影した虹の写真。その後、今日は二重の虹が架かっていたということをツイッターで知った。同じ虹を見ていたのかどうか定かではなかったけれど、パソコンのモニターで写真を見返してみると、たしかにうっすらと二重になっているようだった(画面左)。以下、ついでに撮った空の写真2点。

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写真を撮りながら近所を散歩。最近はずっと絞り優先モードで撮影しているけれど(といって絞りを調整することはあまりないけれど)、いい感じの色合いになった。フルオートで撮ると、もっと全体が明るく浅くなりすぎてしまうと思う。だんだんと日が延びてきた季節の午後5時過ぎの光景。


日本民藝館「日本民藝館改修記念 名品展Ⅰ──朝鮮陶磁・木喰仏・沖縄染織などを一堂に」を観た。いうまでもなく良いというか、言葉になりにくい良さ。
一般的な展覧会で作品に付けられるキャプションは、単なる情報であることが多く、時に作品鑑賞の邪魔にさえなるけれど、日本民藝館の黒地に朱色で手書きされたプレートは、それぞれの時代や地域の表記が目の前の展示物に圧縮された文化を解凍し、それぞれの時空やそこでの生活への想像を促す装置になる。

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倉庫の棚に吊してみた芹沢銈介〈風の字文〉の風呂敷。以前買った小さめの風呂敷がよかったので(2020年12月17日)、新たに大きなものも買ってみた。100×100㎝で税込5,500円。

他にも惹かれる柄はあったのだけど、大きいサイズがなかったり、大きいサイズにするために同じ文様群を反復させているのが気になったりで(〈いろは文〉)、これになった。スケールに左右されないロゴの強さ。