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夕方、いつもよりすこし遅い時間に近所を散歩。絞り優先モードでどんな写り方になるか試しながら撮る。なかなか思うように撮れないけど、思うように撮れないことでむしろよく撮れたという場合もある。以下3点。

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有吉弘行と夏目三久の結婚の報。ふたりが出会ったテレビ番組「マツコ&有吉の怒り新党」(2011-2017)は放送開始からずっと見続けていたし(2017年3月29日)、有吉の言動には当時から共感してきたので、むしろ身近な人の結婚(夫か妻のどちらかしか知らないことが多い)よりも感慨深い。作家や芸術家など僕にとって面識がなくても深く共感する人は古今東西それなりにいるけれど(死者が多い)、それらの人は創作物を介したもっと高尚なレベルでの共感というか、有吉の場合は現代のテレビタレントとして、高校や大学の友達のような世俗的なレベルでの共感なので(しかし高校や大学の友達のように現実の多面的かつ双方向的な他者ではなく、より抽象化された存在ゆえの想像的で純粋な共感)、結婚のような世俗的なできごとも心に響いてくるのだと思う(必ずしも単純な祝意だけではない複雑な感情)。
最近の記憶に残るところでは、上記の番組の後継である「マツコ&有吉 かりそめ天国」で、カルロス・ゴーンに対する日本のテレビメディアのパパラッチ的な取材姿勢に苦言を呈したこと、そしてその苦言の呈し方に、敬意にも近い共感を抱いた。しかしもっと些細な共感は同じ番組を見ていてしょっちゅうあり(他の番組はあまり見ない)、それらは些細であるぶん、余計に縁の深いものにも思われる。

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世田谷美術館で「アイノとアルヴァ 二人のアアルト フィンランド―建築・デザインの神話」展を観た(〜6/20)。やたらと記号的な要素が連なるタイトルが象徴するかのように、いまいち焦点が定まらない印象。英題は「Aino and Alvar Aalto: Shared Visions」。基本的には「これまで注目される機会の少なかったアイノの仕事にも着目する」ということで、ある種の時代性を反映した切り口と言えるかもしれない。ただ、もしこの展示だけを観たら、建築家アールトの仕事の総体ないし核心はむしろぶれて見えてしまわないだろうか。ところどころにあるIKEAのモデルルームを思わせるような展示もそれ自体悪いわけではないけれど、2年半前の「アルヴァ・アアルト──もうひとつの自然」展(2018年9月16日)ではもうすこし内容にメリハリがあった気がする。家具にとくに興味がある人にはよいだろうと思う。曲げ木の技術が詳しく紹介され、実物も多く展示されていた。


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帰り道。

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昨日、天王洲アイルで撮った写真。用がなければ行かない場所だけど、昼御飯を食べ、なかなか心地よかった。用がなければ行かないくらいの場所があまり騒がしくならずによいのかもしれない。以下、写真4点。

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品川の建築倉庫の新施設WHATで「謳う建築」展を観た(〜5/30)。冒頭、立原道造の「小譚詩」(1936)と《ヒアシンスハウス》(1938)を象徴的に掲げつつ、その後の14の住宅建築について、それぞれを実際に体験した文芸家や詩人が詩で謳うという試み。
この「体験」ないし「体感」というのが、この企画のキーでありネックでもあったのかなと思った。たとえば建築に何より「構築」という観念を見いだすポール・ヴァレリーがもしここに参加していたとしても、自らの「体験」を頼りに詩作することはなかったのではなかろうか。よく知らないけども。たまたまいま図書館で借りていたので。

建築は、私の精神の最初の恋愛の数々のなかで大きな位置を占めていました。[…]無秩序から秩序への移行であり、恣意的なものを用いて必然的なものへと到達する構築[2字傍点]という観念が、私のなかで、人間がみずからに提起しうる最も美しく最も完全な行為の典型として定着していきました。完成された建物は、その存在が内包する意図と創意と知識と力の総体を一望のもとに示してくれます。

  • ポール・ヴァレリー「楽劇『アンフィオン』の由来」1932年、今井勉訳(『ヴァレリー集成Ⅴ 〈芸術〉の肖像』筑摩書房、2012年)

対象にされた住宅がどちらかと言うと観念ではない生活を重んじる吉村順三系の建築家によるものが多いことも関係しているかもしれない。よい住宅が多いと思ったけど、よい住宅の体験というのは、言葉にすれば「居心地がよい」「落ち着く」とか「光」「風」「緑」とかの常識的な範囲に収まりやすく、ヴァラエティは出にくい(それでかまわないのだと思う)。そのなかで意図して各住宅の固有性を出そうとすると、言葉は即物的で説明的な道具にもなりかねない。あるいは詩がその住宅の存在を的確に表現していたとしても、その住宅を体験していない来場者には、その建築とその詩との固有の響き合いが実感しづらい。それはもともと建築も詩も展覧会場で(他の存在と並列にされて)鑑賞されるものではないというジャンル/メディアとしての性質も関係しているかもしれない。建築や詩が置かれるのに向いているとは言えない展覧会の場では、むしろ各作品に補助的に添えられた数分の映像(よかった)が鑑賞体験において支配的になりかねない。
(たとえば誰もが思い浮かべられるような建築を題材にし、その建築の似姿(写真や模型)は示さないまま詩だけを集めるというのはどうか。そのほうが「謳う建築」は体験しやすいのではないか──目は時にものを見るのに邪魔になる。しかしそれだと展覧会でやる意味は薄く、本の企画に近づく。あるいは「建築と詩のコラボレーション」ではなく「共通の建築を題材にした写真と詩のコラボレーション」とし、建築の視覚情報を写真作品に限定させたほうが、展示物同士の表現や表象の次元が釣り合い、写真と詩がより確かな響き合いのなかで建築のイメージを浮かび上がらせるということはないだろうか。)
批判が強くなってしまった。全体を概観すると、以上のような形式的な側面がまず言語化しておくべきことに思えるけれど、建築と詩あるいは文学との関わりは個人的に興味を持ってきたところだし(僕も昔、フランク・ロイド・ライトの建築について長田弘さんに詩を書いてもらったりしたことがあった)、いいかげんに表面を撫でるだけでなく、よくここまで踏み込んで企画してくれたという思いが前提にある。建築と言葉のあり方について思考をめぐらせることができただけでなく、具体的にいろんな建築家の住宅があることを知れたり(それぞれの建築を選んだのがどういう人か知らないけど、現代のメジャーな建築ジャーナリズムや建築史の価値観とはすこし違う感じがして、それも魅力だった)、馴染みのない詩の世界に触れられたこともよかった。
下の写真は、堀部安嗣さんの住宅のクライアントのアルバム(複製)。ここに記されている言葉は堀部さんの建築の構築性・観念性を示しているかもしれない。
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WHATでは同時開催の「- Inside the Collector’s Vault, vol.1 - 解き放たれたコレクション」展(〜5/30)も鑑賞した。また、建築倉庫の模型保管庫も初めて見学した(500円)。香山壽夫先生の《聖イグナチオ教会》や山本理顕さんの《ROTUNDA》など見応えがあったけれど、全体としては建築の質も模型の質も玉石混淆と言うほかなく、せっかくのユニークな活動がその意義を見えにくくしてしまっている。

新刊『Kazuo Shinohara: Traversing the House and the City』(Seng Kuan編、Lars Müller)に、阿野太一さんによる評論「多木浩二の建築写真を通じて、写真と建築の関係について考える」が英訳掲載されました。多木浩二が撮影した篠原一男の建築の写真をめぐって、別冊『多木浩二と建築』で書いていただいた文章です。この文章は去年のトークライブ「多木浩二と建築写真──三人寄れば文殊の知恵」の議論でも参照させていただきました。

東日本大震災は日本の社会において非常に大きな出来事だった。けれどもその意味の大きさには当然ながら地域や属性や個々人による偏差があるだろう。たとえば東北の人と比べて沖縄の人にとって震災の意味は相対的に小さいはずだし、沖縄は沖縄で、他の地域の人には実感しづらい別の大きな社会的問題を抱えているに違いない。またたとえ東北の人でも、ニュースにもならないたったひとつの交通事故のほうが、その人の人生にとっては東日本大震災よりも大きな意味を持つということは十分起こりえる。考えてみれば当たり前の事実だろう。これは別に東日本大震災の出来事としての大きさを否定するものではない。
震災以降、それをテーマにする芸術作品が数多く作られている(と思う)。「広さ」と「深さ」という空間的・定量的な概念をあえて用いるなら、それらの作品は、震災というテーマによって、社会的な広がりはいくらか保証されていると言えるかもしれない。しかし、人間ひとりひとりに現象する経験の深さは(他のあらゆる芸術作品と同様に)保証されていない。そしてたとえば「広さ100」×「深さ1」の作品(=100)が「広さ1」×「深さ10」の作品(=10)より価値が大きいと言い切ることもできない。
震災関連のアートを扱ったテレビ番組を観ていてなんとなく思ったこと。

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めずらしく傾いたままの写真。水平垂直にすると全体が均質化し、画面の中央部分に視線が向く力が弱くなるような気がした。主観性の演出。ノートリミング。

インタヴューという形式は開かれているようで閉じやすい。ある人を訪ねて話を聞きに行くインタビュアーにとって、自らの行為は外部に開いた行為だと感じられるけど(特に相手が異分野で面識がない場合)、そのインタヴューの場でされる話は、お互いに目の前に話し相手がいるぶん(相手が見えない孤独な執筆よりも)、そこで局所的に閉じかねない。
とはいえこうした「開く」「閉じる」の関係はむずかしく、読者そっちのけでインタビュアーの個人的な問題意識に閉じ、その場の局所的な対話に閉じることで、むしろその断絶された深さによって別の回路からより力強く他者や公に開かれるということも起こりうる。

GROUP(井上岳+大村高広+齋藤直紀)による出版まもない『ノーツ 第一号 「庭」』(ノーツエディション、2021年)を読んだ。

雑誌とは書いていないけど、まあ年刊の雑誌の創刊号と思ってよいのではないかと思う。あるいは定期刊行物と言うべきか。僕だけが思うことかもしれないが、以下のような多くの点で『建築と日常』との共通性を感じさせる。

  • 建築系のインディペンデントな雑誌(刊行頻度は高くない)
  • 1冊ワンテーマの特集主義
  • 特集テーマは根本的で抽象度が高く(1号と予告された2号のテーマを見るかぎり、日常性に根ざしている)、建築分野外の人やトピックも積極的に包含する
  • 他者へのインタヴューが中心的な構成要素になっている
  • インタヴューの本文に多様な註が付き、拡散的で重層化した読書空間を示す

そのせいで僕自身の考えや価値観を投影しすぎている恐れもあるものの、今後の『ノーツ』の活動に期待して書くと、さまざまに詰め込まれた情報に対して、全体としてどうもすんなりと言葉が入ってこないという印象があった。理由はいろいろあるにせよ(もちろん僕自身の問題も含め)、大雑把に言ってしまうと、この媒体が志向する多様性や拡散性をつなぎとめるような核の存在が希薄なのではないかと思う(『建築と日常』の場合、その核はなかば意識的に僕個人の思想や嗜好が担っているわけだけど、『建築と日常』では逆にその核が強く働きすぎて、多様なものを一元的に位置づけてしまいかねないことを気にかけている)。
どちらかと言うと今回の号は、これが実際にどういう読書体験をもたらすかということよりも、あるいは自分たちの興味にどうしようもなく衝き動かされてというよりも、いかに新鮮で魅力的な目次を描いてみせるかという形式的・構成的な地点に軸足がとどまっているように感じられる(その意味で、全部で6つあるパートのうち、GROUPの3人の専門であり関心の中心にあるはずの建築を扱ったパートがないのは象徴的と言えるかもしれない)。庭というテーマ設定はよいとしても、その上でさらに自分たちにとって切実なヴィジョンが全体を貫いていれば、この冊子をかたちづくるさまざまな要素の関係、つまり聞き手と話し手の言葉の関係や、全6パートのパート同士の関係、本文と註の関係、テキストとレイアウトの関係なども、より有機的・必然的なあり方をなし、おのずと各所で予期せぬひびき合いを生むようになったのではないかと思う。*1
あるいはこうした見解はやはり『建築と日常』発行者固有のものであって、特に若い人にとっては「媒体の核」や「切実なヴィジョン」などと暑苦しいことを言わずに、このくらいバラバラな感じのほうがフラットで好ましいという感覚もあるのかもしれない。しかし僕としては、『ノーツ』はインディペンデントな自費出版で、誰に頼まれたのでもなく、どこに遠慮することもなく、さらには本職としてそれで生計を立てるわけでもなく作られているのだから、その運動に必然的なパッションを認めたいと思ってしまう。
実際、目次や構成は新鮮で魅力があり、それはそれだけの知識やセンスに支えられているということだろうし、近年のインディペンデント系の出版物に見られがちな自己顕示や自己宣伝が前面に出てくる印象はなく、既成の領域に囚われずに自分たちが今いる場所からものごとを捉えていこうとする姿勢には共感する。GROUPの3人の関係/体制がどうなっているのかは知らないけれど、1号では特に感じられない3人それぞれの個性が見えてくると、媒体として、より生き生きとしてくるのかもしれない(1号での3人によるテキストや発言はすべて基本的に無記名だが、べつにそこに個別のクレジットを表記したほうがよいという意味ではなく)。彼らは出版が専門ではないわけだから、今後活動が持続すれば、編集をめぐる思考や技術の習熟によって、より確かにメディアを手なずけていけるようにもなると思う。

*1:あとこれがどれだけ今回の『ノーツ』に当てはまるかどうかはともかく、特集テーマをめぐってその全体像や誌面に載らない背景・周囲のことまで同時に把握しながら要素を構成する作り手に対し、雑誌の読み手はそもそも各要素のあいだにどれほどの関係や秩序があるのか見通しがないままそれらを線的に読み進めることになるという経験の格差が両者にはある。だから特に多様な要素を知的に構成することで成り立つような媒体においては、結局読み手にその構成された集合としての意味を経験してもらえなかったという事態を避けるために、多少強めに(親切に)全体を統合しておいたり要素間の関係を顕在化させておいたりする補正的な操作が編集の技術として有効になるかもしれない。

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写真を撮りながら近所を散歩。今更だが撮影の幅を広げていきたいと思い、ふだんのフルオートから絞り優先モードにしてみた。きれいに撮れている場合もあれば、露出や被写界深度がうまくいっていない場合もある。それは運。
以下10点、撮影順。

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電車を間違え、国会図書館へ行くつもりが日比谷のほうに着いてしまった。写真は地下鉄から地上に出たところ、第一生命館(現・DNタワー21)の脇に設置された渡辺力のデザインによる時計(1972)。自宅で長く使えそうな掛け時計を探しているのだけど、この日比谷の時計は家庭用にアレンジされ、本体12,000円で販売されている。

元の時計は「谷口吉郎先生からも誉めて頂いた」らしい(第一生命館の隣には谷口吉郎が設計に携わった帝国劇場、さらに東京會舘が建っていた)。そういうエピソードについなびいてしまいそうになるのだけど、もともと2つの時計がセットで支柱と一体に考えられたものだろうし、文字盤のデザインとしても、やはり住宅用にはどうかなという気もする。実物を見てみたい。

EDM(Electronic Dance Music)のような建築という言い回しを思いついた。断片化された要素の構成によって成り立ち、極めて身体的であるとともに極めて観念的であり、両極のあいだを満たす文化や伝統が希薄である。非日常的にたまに体験するのはよいとしても、日常いつもだと煩わしい、あるいは日常いつもだと飽きてしまう。とはいえ僕自身、EDMにほとんど馴染みがなく、この言い方がどこまで妥当か分からない。