個人的に面倒なしがらみもなくなったし、ネット上で政治関連の発言もしていきたい気はあるのだけど、底が抜けてしまったかのように日々あまりにもひどいことが同時多発で起こるので、自分がなにをどう言葉にすれば意味を持ちうるのか、途方に暮れてしまう。
5年前に『建築と日常』No.3-4の巻頭言で下記のように書いたときには、まだ自分なりの書く手応えが感じられていた。そのときはまさかさらにここまで下があるとは思ってもみなかった。今では当たり前のこと過ぎて、批判としてのリアリティはほとんど消えてしまった。

政治家こそ「今、ここ」を超えた世界を見通す目を持たなければならないにもかかわらず、歴史的に存在する他者、他者の議論、他者の経験、他者の生活などをことごとく無視し、自分もしくは自分たちがいる「今、ここ」の欲望に囚われている。言葉は唖然とするほど空疎になっている。

最近SNSで流行しているブックカバーチャレンジ。友人知人が面倒そうに見せながらも得意気に蔵書自慢、教養自慢しているのを眺めながら、自分にバトンが回ってきたときには何を挙げようか考えているのだけど、一向にバトンが回ってこない。

人から構はれたくない、それはうそである。だれも構つてくれなかつたら淋しいだらう。淋しくならない加減で、うるさくない程度におつき合ひ願ひたい。しかしその鹽あんばいはだれにも解らないだらう。私自身にもわからない。

  • 内田百閒『馬は丸顔』朝日新聞社、1965年、p.216 ※装幀=中川一政

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すこし時間ができたので、にわか仕込みで勉強し、ホームページをスマホ対応(レスポンシブ)にした。本屋で買った解説書を見ながら、CSSファイルというのを初めて作った。全体のデザインも整理し、それなりにすっきりしたのではないかと思う。2年前〜5年前くらいにやっておけばよかったと心から思う。

というかサイトデザイン以前に、画面に勝手に広告が表示されるのが駄目な気がする(10年以上前からずっと使っている、FC2ホームページの無料版)。パソコンで見るぶんには出てこないのだけど、最近までスマホを持っていなかったので気づくのが遅れた。

note(https://note.com/richeamateur)を使い始めてしばらく経ったけど、はてなブログと比べてSNSっぽさが強い。フォローされるとこちらもお返しにフォローしなければいけないような気分になったり、記事に「スキ」をされても、この人はただ単に自分のページへのアクセスを増やしたいだけで、僕の文章なんて興味がないし読んでもいないんじゃないかと思ったりする。人気があるらしい記事の、他人の視線を意識しすぎた文体にも馴染めない。
noteでは今のところ過去に紙媒体で発表したテキストを掲載しているけれど、その他にインターネット上で公開されている主なテキストも一覧としてまとめてみた(随時更新)。

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最近近所を散歩していて目についた建物ふたつ。こうして並べて見るとなんとなく似ている。木造部分のかたちや色、コンクリートのヴォリュームとのハイブリッド性など。まさかご近所同士での影響関係はないだろうけれども。バシリカ式を模していると思われる教会建築の内部は謎。

引き続き、noteに「建築を評価することの困難」をアップ。SDレビュー2014の展評(2014年12月3日)だけど、コンテストや展覧会といったものと建築との関係を中心に書いているので、実際の展示を観ていなくても、建築賞や建築展に対する批評として読める内容だと思う。引用している桐敷真次郎さんの文章には少なからず影響を受けた。

引き続き、noteに「プロとアマの間」をアップ。7年ほど前に『建築雑誌』に寄稿した文章(2013年5月1日)。『建築と日常』をめぐる環境は色々と変わってきたけれど、根本的な考えは今もとくに変わっていない。

引き続き、noteに「熟成する空間」をアップ。雑誌『東京人』に寄稿(2013年2月12日)した後、『ベスト・エッセイ2014』(日本文藝家協会編、光村図書出版、2014年)というアンソロジーにも収録された文章。その後、小学生向けの試験問題に採用されたりもして(2015年11月16日)、僕が書いた文のなかでは広がりを持ったもの。

noteでアカウントを作成し、一昨年に書いた『雪あかり日記/せせらぎ日記』の書評(2018年10月20日)をアップしてみた。

最後のところで書いたことがいまあらためて重みをもつ。

寛容さを失い硬直化する世間の空気に流されず、冷静に現実を観察し、ものごとの善し悪しを自分で判断する。この谷口の強靱な常識感覚も、本書が今、私に響いてくる要因の一つだと思われる。

新型コロナの非日常のなかでふいに内田百閒の随筆(2011年3月16日)を思い出し、ひさしぶりにぱらぱらと『百鬼園日記帖』(福武文庫、1992年)をめくってみた。以下、目に留まった一節。

子供に神秘的な恐怖を教えたい。その為に子供が臆病になっても構わない。臆病と云う事は不徳ではない。のみならず場合によれば野人の勇敢よりも遥かに尊い道徳である。暗い森を見てその中にいる毛物(けもの)を退治しようと思う子供よりも、この暗い森の中にどんな恐いものが住んでいるだろうと感ずる子供の方が偉い人間になる。(大正6年9月24日付)

スティーヴン・ソダーバーグ『コンテイジョン』(2011)をNetflixで観た。contagionとは伝染病のこと。パンデミックを描いた映画で話題になっているようだけど、作品としてはずいぶん平板に思えた。またこういう時期だから余計に感じるのかもしれないけど、一般市民による襲撃や強奪を描くのはどうなのか。この作品1本によってということはないにしても、無意識のうちに現実世界でその類の行為を誘発させたり、アメリカならば護身用として銃を所持しなければならない気分を促進させたりするのではないかという気がした。読んでいないけど、同じく話題になっているカミュの『ペスト』(1947)にも似たような描写はあるのだろうと思う。ただ、やはり映画は小説に比べてスペクタクル化/大衆化しやすく、そのことに無責任ではいられない。

この3ヶ月ほど、毎週「コタキ兄弟と四苦八苦」(テレビ東京)という深夜ドラマを観ていた。1話40分弱で全12話、脚本が野木亜紀子で監督が山下敦弘。多彩なアイデアと複雑な構成が絶妙なバランス感覚で成り立っていて(部分と全体、ファンタジーとリアル、自然さとわざとらしさ、ベタとずらし、おふざけとマジ…)、脚本、キャスティング、演出、演技、美術、音楽、どれもが高いレベルで融合している。基本的に1話完結で気楽に観られつつも、精密なパズルのように組み立てられた全12話でドラマチックな展開に引き込まれ、また日常世界のベタなコメディ(しかし現代的で軽妙な)で楽しませつつ、その世界がより巨視的に現代の社会問題とかけ合わされる。そのテレビドラマとしての完成度の高さに感心させられつつ、俯瞰的・相対的な構成の手つきを前面に見せる作品の常として、物語に没入する体験は生まれづらいように思えるけれども、それでもきっちり涙を誘うような場面も仕込まれている。エンディングの歌もドラマにマッチしていてとてもよく、それがまたスターダスト・レビュー(結成40年あまりの時代がかったベテラン)というところが唸らせる。とくに登場人物同士のこころが入れ替わる第8話が出色だった。

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『土浦邸フレンズの活動記録2013−2020』をいただいた。価格表記はなく、A5判で136ページ。主に設立講演会(槇文彦/藤森照信・岸和郎・西澤泰彦)と6回の研究会(小川信子・牧野良一/西澤泰彦/植田実・花田佳明/藤森照信/内田青蔵/腰原幹雄)の記録。