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東京都美術館「ハマスホイとデンマーク絵画」展を観た(~3/26)。建物や室内空間も描いているし、僕が惹かれてもよさそうな画家だと思ったけど、案外そこまででもなかった。近くで見るよりも、筆触が消えるくらい離れて見たほうがよい。
もしかしたらハマスホイが表現しているようなことは、僕にとっては写真が代替してしまっているのかもしれない。こういう「静謐な」写真を撮る人はけっこういると思う。

国立近現代建築資料館「吉田鉄郎の近代──モダニズムと伝統の架け橋」展を観た。初日に観て、「少なくとももう一度は訪れて、じっくり観る必要がある」と書いたものの(11月2日)、ギャラリートークの日は展示を観る余裕がなかったし(11月30日)、結局最終日になってしまった。
時間をかけてじっくり観る。『建築と日常』No.5()で吉田の建築観や人物像をつかんだ気でいたので、図面やスケッチにもより深く吉田の内的なところが見て取れるかと思っていたけれど、案外そうでもなかった。自分の未熟さと建築の奥深さを感じる。

区役所に行って婚姻届を提出。結婚したことになる。こういうプライベートな出来事はこのブログでほとんど書いてこなかったし、書きたくないのだけど、妻となった人が「書かないと『建築と日常』の女性ファンが誘惑してくる」と言って聞かない。そんなことあるはずがないと言い返しても聞く耳をもたない。

トラン・アン・ユン『青いパパイヤの香り』(1993)を家で観た。1950年代から60年代初めのベトナムを舞台にした作品。タイトルは色んなところで目にしながらなんとなく見過ごしていたけど、観てみるとやっぱり面白かった。この監督の作品を観るのも初めてで、アジア的な素朴さや純真さが前面に出た映画と思いきや、それもある一方、作品としてはかなり構築性が高い(監督はベトナム系フランス人)。
前半と後半でそれぞれ1軒ずつ家が出てきて、実際の映画の舞台はほぼその2軒の家に限られる。どちらも使用人とともに暮らすような広い家で、庭や土間も含めて様々な空間性を持っており(特に前半の家は伝統性・様式性が強く、用途として店舗も含んでいる)、またベトナムなので個々の空間は開放的で、空間同士は分節されながらも連続している。
このふたつの家は実は本物ではなくセットらしいのだけど(敷地はフランスのパリ郊外)、家は物語を存分に活かすようにデザインされ、また物語は家を存分に使うことを念頭に組み立てられている、と思えるほど映画と建築とが密接に関わっていた。もっと分析的に観れば、建築的な視点でなにかしら論じてみることもできるかもしれない。音楽の使い方が1960年代くらいの日本映画(勅使河原宏とか)を思わせる感じで印象深く、それも映画の空間性に影響を与えていたと思う。
みずみずしく写された植物や虫や水や料理などに目を惹かれる一方、映画の空間全体にはどこか箱庭のような抽象的な印象も受ける。それはふたつの家がセットであることや、計算し尽くされたカメラワークや、シンデレラ・ストーリー的な物語とも関係することかもしれない。石上純也さんがこの作品を「群を抜いて好きな映画」としているけれど(『映画の発見!』DETAIL JAPAN別冊、2008年)、たしかにそれはすんなりと肯けることで、この自然/人工のあり方は石上さんの建築にも通じると思う。

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改築後の《The Okura Tokyo》(2019年竣工)を初めて訪れた。仕事の打ち合わせだったのでじっくりとは観ていないけど、以前のロビー空間(2015年8月27日)と比べて、たしかに再現性が高い。それを新しい建物の構成のなかにきっちりと収めているのはさすがだと思う。
画面の端のほうを暗くしてトイカメラ風に見せるデジカメの機能は、部屋で物を撮るときによく使うのだけど(過去2日分の日記参照)、たまたまその設定にしたまま撮ってしまった。でも建物の内部を広角で撮るときも、周辺部の歪みが目立たなくなるのはよいかもしれない。

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最近買ったもの。サン=テグジュペリも『建築と日常』No.2()で触れて以来遠ざかっていたけれど(ツイッターのbotはフォローしている)、だいぶ前(2012年4月30日)に古本屋で買った『城砦』全3巻(山崎庸一郎・粟津則雄訳、みすず書房、1962-63年)はさすがにそろそろ読まないといけない。タイトルから察して、建築と関係する話なのだろうか。長谷川堯さんが『神殿か獄舎か』(相模書房、1972年)との関連でこの本について語っている。あまり意味はないけど、読み始める動き出しのきっかけになればと思って引用しておく。

『城砦』という名前そのものも中世都市的なイメージがあるでしょ。で、読んでみたら、自分と同じようなこと…というのもおかしいけど、つまり視点としては同じような視点があることをすごく思いましたね。ちょっと引用が長すぎるとは思ったけどやっぱり興奮して引用したんです。

というかいま初めて知った気がするけど、サン=テグジュペリは美術学校で建築を学んでいたらしい。

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近所の古本屋で買った文庫本と、もらったバッジ。ここ数ヶ月、散歩がてら何度も行ったことがある古本屋だけど、まだ実際に本を買ったことがなくて、なにか早めに買いたいと思っていた。休日にそういう意図で買うにはちょうどよい本ではないかと思う。モラリストについても、以前(2014年2月8日)すこし興味を持ったきり、特に考えを深めることをしていなかった。
じつはこの店のご主人とは、お店が開かれるよりも前に一度だけ会って名刺交換をしたことがある。ただ、おそらく先方は僕の顔を覚えていないだろうし、顔見知りになるとなんとなく通いづらくなりそうな気がするので、過去のことはとりあえず伏せておくようにしている。

昨日挙げたほかに、このところアッバス・キアロスタミの『友だちのうちはどこ?』(1987)、『そして人生はつづく』(1992)、『オリーブの林をぬけて』(1994)、『桜桃の味』(1997)も続けて観たのだった。キアロスタミの映画については自分なりに文章にしてみたいという思いがあるけど、今のところ手に負える感じがしない。とりあえず今回観たニューマスターBlu-ray BOXⅠ()に加え、BOXⅡ()のほうも注文した。
現時点でひとつ確かな実感としてあるのは、映画が詩になっているということ。詩(ポエム)という言葉は今の日本でひどく手垢にまみれているものの、とりあえずウィキペディアの「詩」の項目()にある定義──「言語の表面的な意味(だけ)ではなく美学的・喚起的な性質を用いて表現される文学の一形式」──でよいと思う。単に映画としてその場の情景や物語だけを示しているのではなく、それが同時にもっと大きなことを別の階層で表現しているように感じられる。それは寓話というほど具体的・象徴的・直接的ではなく、曖昧なイメージではあるけれども風通しがよく心地よい。
キアロスタミにとっての小津安二郎の存在の大きさをよく知らなかったのだけど(大きいらしい)、今回観ていて小津の映画と似た感触を節々で感じた。人間や世界を超越的・形式的に捉える温かくも醒めた眼差しとレトリカルな手つき。よく言われるフィクションとリアルの重ね合わせというのもやはり重要だろう。たとえば「友だちのうち」に辿り着こうとする『友だちのうちはどこ?』の構造をスケールを変えて反復する『そして人生はつづく』は、フィクションである前者の舞台裏を明かしてしまう半ドキュメンタリーのはずなのに、実際には前者の世界の虚構性を暴くことにはならず、逆にその世界の実在性を実感させるという不思議な体験をもたらす。
そのうちキアロスタミの映画について多少なりとも意味があることを書ける時が来るだろうか。別にわざわざ書かなくても映画を楽しめればそれでよいのかもしれないが、自分にとって重要なある種の作品においては、自分で書くという行為がその作品をより深く楽しむことにも繋がっていくように思われる。

ここ最近、家で観た映画。ロバート・J・フラハティ『極北の怪異』(1922)、F・W・ムルナウ『吸血鬼ノスフェラトゥ』(1922)、ジョン・フォード『周遊する蒸気船』(1935)、同『タバコ・ロード』(1941)、同『太陽は光り輝く』(1953)、黒澤明『醉いどれ天使』(1948)、同『悪い奴ほどよく眠る』(1960)、フェデリコ・フェリーニ『道』(1954)、ロマン・ポランスキー『テス』(1979)、阪本順治『新・仁義なき戦い。』(2000)、堀禎一『弁当屋の人妻』(2003)、ジム・ジャームッシュ『パターソン』(2016)、ロン・ハワード『ザ・ビートルズ EIGHT DAYS A WEEK ‐The Touring Years』(2016)、アルフォンソ・キュアロン『ROMA』(2018)。
ここ最近というか、だいたい数週間から数ヶ月前に観たものなので、もう大部分を忘れかけている。定評があるものはさておき、『テス』が意外と面白かった記憶がある(最後にストーンヘンジが出てくる。メモ)。『パターソン』はもっとよかった。淡々とした日常を同じように舞台にしながら、かつての『ストレンジャー・ザン・パラダイス』(1984)では「ここではないどこかへ」行こうとしていた一方、『パターソン』では「ここ」に留まり続けようとすると対比してみると、その変化に作家の人生が感じられるようで味わい深い。あと、ジョン・フォードあるいはアメリカ人にとって「南部」を描くことは何を意味するのかと思ったような気がする。
この日記はいま4ヶ月くらい遅れて更新しているけれど、作品の感想なんかは、鑑賞直後の思いつきを書くよりも、ある程度時間を経て残ったもの、浮かび上がってきたものを記すほうが、公にする文としてはよい気もする。何も残らなかったり浮かび上がらなかったりしたら、それはそれで仕方がない。

マーティン・スコセッシ『沈黙 -サイレンス-』(2016)を家で観た。江戸時代のキリシタンと宣教師の弾圧を題材にした話。原作である遠藤周作の小説『沈黙』(1966)は数年前に香山先生との対談のなかで言及されてもいたのだけど、その時もその後も読んではいなかった。

日本でも遠藤周作が『沈黙』(1966)という小説を書いたでしょう。苦しくて苦しくて、神様にどうしてくれるんですかと何度も聞いても、神は答えない、沈黙しているという話です。あのとき日本のカトリックの人たちは、なんて反キリスト教的な物語を書いたのだといって遠藤周作を非難しました。しかし神は沈黙しているんです。

なんとなくの想像では、弾圧する幕府側を絶対的な他者/悪とし、それに向かい合うキリスト教徒の内面(受難)を問題にした物語かと思っていた。しかし映画では日本の奉行や役人が単純な悪ではなく、意外と知的・理性的に描かれていて(非現実的と感じるほどに)、全体としてより複雑な世界像が示されていた。歴史的にキリスト教の布教が西洋諸国の帝国主義と表裏一体であったことや、その後の世界史および現代のグローバリズムなどを知っている立場から見ると、近世の日本におけるキリスト教徒への弾圧は、非西洋国による正当防衛的なレジスタンスであり、その歴史的成功例の一つであるかのようにさえ思えてくる(現実に弾圧に苦しむ人間がいたなかで、そうした超越的な見方が妥当なのかどうかはまた別の話。というかその現実と観念との葛藤において、観客一人一人もまた現代の自分に迫るものとしてこの映画が描く問題に向き合うことになる)。
こうした多元的な物語の構図は、「沈黙」という中心的なテーマを弱めもするだろうけど、僕としては作品世界に抽象的な広がりが感じられて興味深かった。だから具体的な史実に寄り添った物語というよりは、そこから要素を抽出し(あるいは設定を借用し)、様々な人間が追体験可能な、より普遍的な物語に組み立てたという印象。これはもしかしたら遠藤周作の原作に基づくというより、スコセッシの人生や思想によってアレンジされたあり方なのかもしれない(よく知らないけど、遠藤周作のような日本人でクリスチャンの作家がまずオリジナルで『沈黙』という小説を書こうとしたときに、こういう俯瞰的な視点はとらないような気がする)。原作もそのうち読んでみたいと思った。映画でも他に、篠田正浩による『沈黙 SILENCE』(1971)があるらしい。

新年。新刊はないが、印刷会社のポイントがまもなく失効するというので、『建築と日常』の媒体案内(全号目次+主な取扱店)を更新し、印刷の注文をした。A4判両面、二つ折。オンラインショップやAmazonマーケットプレイスで注文があった際は、雑誌に同封して発送します。
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NHK Eテレで、日曜美術館「芸術を視る力 造る力──造形作家 岡﨑乾二郎」を観た。岡﨑さんの言論活動を紹介するパートで『建築と日常』No.1()が大きく映し出されて驚いた。
岡﨑さんの自作を語る言葉や制作現場の映像は、作品を読み解く上で大きなヒントになるもので、今後も折にふれ観返したいような内容。ぱくきょんみさんが語る高校時代のエピソードなども興味深かったし(照れくさかったのか、話の途中で岡﨑さんが部屋を出て行ってしまう)、たしかな視座のもとに作られた良い番組だった。永久保存版。