昨日引用した本からもうひとつ。反知性主義としてのアマチュアリズム。
孔子がいっているね、「知る者は好む者に及ばない。好む者は喜ぶ者に及ばない」。(小林秀雄)
- 小林秀雄・田中美知太郎「教養ということ」『中央公論』1964年6月(『小林秀雄対話集』講談社文芸文庫、2005年、p.329)
昨日引用した本からもうひとつ。反知性主義としてのアマチュアリズム。
孔子がいっているね、「知る者は好む者に及ばない。好む者は喜ぶ者に及ばない」。(小林秀雄)
- 小林秀雄・田中美知太郎「教養ということ」『中央公論』1964年6月(『小林秀雄対話集』講談社文芸文庫、2005年、p.329)
インターネットで、クリント・イーストウッド『ジャージー・ボーイズ』(2014)と、黒沢清『クリーピー 偽りの隣人』(2016)を観た。その高度な技術や世評の高さはじゅうぶん理解するものの、個人的に「好き」とは言いづらい両監督だけど、この2作の印象は好対照だった。
『クリーピー』は傑出した部分を多く持ち、とくに埼玉県立大学(設計=山本理顕、1999年竣工)のガラスで重層化した空間の使い方とか、なにげない民家の実在感とかの建築/空間表現がすばらしく、鈴木了二さん風に「建築映画」と言って分析してみたくなるほどだった。しかし作品の総体としては、その暴力性において、「こんな映画は世の中にないほうがいい」と思ってしまうくらいに嫌悪感をかき立てられた。黒沢清の映画では、たとえ狂人を描いていても「本当に狂っているのはどっちだ?」みたいな疑問を投げかけてくる哲学的な深みがある気がしていたけれど(それほど厳密な認識はないので、僕の思い込みかもしれない)、この作品の世界像は平板であり、小説を原作に持つせいもあってか、ストーリーもところどころ描き切れていない感じがした(たとえば主人公夫妻の人間関係など)。
一方、『ジャージー・ボーイズ』は事実にもとづくミュージカルの映画化ということらしく、物語はごくごくベタだと思うのだけど、その音楽をベースにした典型的な映画の現れが、いつものイーストウッドの作り込まれた世界像の微妙な気味の悪さを霧散させているようで、素直に作品を楽しめた。初対面でお互いを探り合っている若者同士が偶発的にセッションを始め、とたんに息が合って演奏が盛り上がり場の空気を変えていくというようなシーンはあまりにもベタだけど音楽映画の醍醐味という気がするし、それをリアリティをもって成り立たせているのは、やはりイーストウッドの映画の技術なのだろう。
この2本の映画のあり方の違いは、それぞれの監督がたまたま選んだ原作の違いということでもあるかもしれないけど(「建築映画」は「それだけ」では成り立たないが「音楽映画」は「それだけ」で成り立つ、ということもあるだろうか)、ちょうど最近読んだ本で印象深かった福田恆存の発言が、このふたつの映画作品の違い、あるいはふたりの映画監督の違いを説明するような気がした。おそらくこの言葉を、黒沢清は屁とも思わず、イーストウッドはそれなりに共感するのではないだろうか。
すべての作家は、人間のよさ、それから生きていることのよさというものが書けなければ仕方がない(福田恆存)
- 小林秀雄・中村光夫・福田恆存「文学と人生」『新潮』1963年8月号(『小林秀雄対話集』講談社文芸文庫、2005年、p.266)
このブログをスマホで見ると、アクセス数が多い「注目記事」のランキングが5位まで表示されるようになっていて、3年前のコモンシティ星田(設計=坂本一成)を訪れた日の日記(2016年2月27日)がいつも1位になっている。たしかに有名な建築について比較的しっかりとした長文を書き、写真も多く載せているからまったく不可解ということはないけれど、それにしてもいつも1位というのは、1位にランキングされるとそれを見た人のアクセスがさらに増えるという構造的な作用の影響もあるかもしれない。ランキングに表示される「こういう発言をしていいのか分からないけれ…」という記事冒頭の言葉が、なにかしら人の興味を誘うということもある気がする。
スマホでは各記事に自動で何件かの「関連記事」が表示されるようにもなっていて(共通するキーワードを拾っているのだろう)、たとえばゴンブリッチの言葉を載せた記事(3月11日)にはアーレントの言葉を載せた5年前の記事(2014年5月4日)がリンクされていた。美術史家のゴンブリッチ(1909-2001)と政治哲学者のアーレント(1906-1975)がジャンルを超えて繋がるというのは、あらためてそれぞれの思想を思い浮かべてみると納得できる気もするけれど、実際に両者の直接的な接点や、思想的関連を指摘したテキストなどは存在するのだろうか。コンピュータの働きとして、こういう発見は面白い。このブログの記事は、自分で書いた文ならば大概覚えているものの、メモ代わりに抜粋/引用した文はわりと忘れてしまうので、ゴンブリッチを経由してひさしぶりに読むアーレントの文は新鮮だった。
古谷利裕さんの『虚構世界はなぜ必要か?──SFアニメ「超」考察』(勁草書房、2018年)の刊行記念イベントとして行われたトーク、古谷利裕×上妻世海「虚構と制作」をRYOZAN PARK 巣鴨で聴いた。私的な会話を除き、今まで僕が聴いた古谷さんのトークのなかで最も面白かったかもしれない。上妻さんの微妙に気を遣いながらもあくまでずけずけとしたツッコミが、古谷さんの知的な構えを崩し、その思想の輪廓を浮かび上がらせていたのではないかと思う。上妻さんが指摘したように、古谷さんの「虚構(フィクション)」という言葉の使い方にはやや無理があるように思えたけれど、そういう上妻さんの新世代的な明晰さに共感する一方、古谷さんが見せた旧世代的なたどたどしさ、割り切れなさにも共感する。
TOTOギャラリー・間「中山英之展 , and then」を観た(〜8/4)。ギャラリーの上階を映画館(シネ間)に見立てて、中山さんの住宅作品など5軒+1作を写した5+1本の短い映像が連続上映されている(そのうち3軒は竣工時に見学しているので、一般の観客とはすこし異なる鑑賞体験になっているかもしれない)。それぞれの映像の制作は住宅の住人などに委ねられたそうだけど、設計者以外が撮れば客観的でリアルに対象を捉えられるということもない気がするし、中山さんがすべてを監督して存分に作り込んでもよかったのではないだろうか。そのほうがむしろ建築の「それから」(竣工以降)というコンセプトは際立ってきたのではないかと思う。
下階のBookshop TOTOでは、展覧会の特設コーナーで別冊『窓の観察』(→)も並べてくださっていた(去年一緒にイベント(→)をした柴崎さんの『わたしがいなかった街で』と『パノララ』も)。展覧会と同時出版の『建築のそれからにまつわる5本の映画 , and then: 5 films of 5 architectures』(TOTO出版)には、かつて編集を担当した『映画空間400選』(INAX出版、2011年)で中山さんに寄稿していただいた「映画についての映画について」という文章が加筆・改題され収録されている。
一昨日引っ越しをした元の部屋に行って簡単な掃除をし、15年前に契約したときと同じ不動産屋の担当者に鍵を返却したあと、敷地に残していた自転車に乗って新しい部屋へ向かった。引っ越しの日に自転車もトラックに積み込むことはできたのだけど、あえてそれをせず、前の部屋から次の部屋へ、自転車で移動するのを楽しみにしていた。これまで自転車で行ったことがない方向へ遠出をするのはちょっとした冒険のような気分だし、片道だけ行って戻る必要がないのも気楽でいい。また、電車や自動車ではなく自転車でふたつの部屋を移動することで、今度新しく住む場所が、以前住んでいた場所(の経験)と連続した、より広い確かな領域のなかに位置づけられるような気がする。前の前の部屋から前の部屋に引っ越したときも自転車は自分で乗って運んだし、たぶんさらにその前の引っ越しのときも同様だったと思う。
25歳のときから15年ほど住んだ部屋を離れた。15年前、友達に手伝ってもらってレンタカーで越してきたときよりも、ずいぶん荷物が増えた(『建築と日常』の在庫含む)。古いながらもおおらかな造りで愛着をもっていた部屋だったけれど、物的にも精神的にもさまざまな事物が滞留している感じがして(掃除や片付けをするモチベーションも下がっていた)、これ以上住んでいたら駄目だろうなという気もしていた。
『建築と日常』No.5を発行して今日でちょうど1年。全体を読み返してみた。まだ古びてはいないと思う。
SNS全盛、とにかく目立ったもの勝ちというこの世の中で、平凡であることの意味を見いだす。建築における個性とは? オリジナリティとは? 吉田鐵郎、柳宗悦、河井寬次郎、坂本一成、堀部安嗣ほか、昭和戦前から最新建築まで。
- 『建築と日常』No.5(特集:平凡建築) http://kentikutonitijou.web.fc2.com/no05.html
巻末の編集後記で、「例によって次号の見通しはまだないが、今はなにか新鮮なことをしてみたい気分だ」と書いている。この時はまったく予定していなかったけれど、その後実際に、自分にとって新鮮なタイプの仕事をすることになった。しかしこの特集号を読み返してみたりすると、この先、モノとして、自分がこれだけ充実した仕事をすることがあるだろうかとも思う。自分のキャラクターとして自認し、『建築と日常』にとってもしばらくキーワードになり続けている「保守性」は、未来への見通しのなさ、計画的思考のなさと表裏一体であることを実感する。
別冊『窓の観察』(→)や『建築家・坂本一成の世界』(→)で写真を撮ってもらったqpさんが、最近旅行したオーストリア&チェコのアール・ヌーヴォー建築(アール・デコも?)の写真をブログに載せている。ぜんぶで90点あるらしい。建築と装飾、照明。
少なくとも日本で建築史の教育を受けると、アール・ヌーヴォーはモダニズムに至る歴史の流れのなかで、前段階や過渡期のスタイルという認識を持ちやすいのではないかと思うけど(外国ではどうか分からない。モダニズムの進化論的な歴史観はそもそもヨーロッパ発だろうけど、アール・ヌーヴォー建築の実物が身近に存在する環境では、そうした観念的な歴史観は自ずと相対化されそうな気がする。たとえば日本で、現実の銀座和光が中銀カプセルタワービルより必ずしも「遅れている」と感じさせないように)、こういう写真(形式的な建築写真ではなく、単なる素人の観光写真でもない、建築への興味を主体的に持ちつつも、ある種の歴史主義とは一線を画したアマチュアリズムの写真)を観ると、そういった無自覚の歴史認識を反省させられることになるかもしれない。「作品はそれ自体として鑑賞するものではなく、前後との関連によって興味が持たれた」という、このまえ(3月11日)引用したゴンブリッチの論とつながってくる。
第二十八回文学フリマ東京が無事終了。7回目の参加で、売上げは以下のとおり。括弧内は前回以前の数字。
前回はあまり売れ行きがよくなかったし、今回は初めての新刊なしでの参加だったので、どうせ売れないだろうと高をくくって少なめに持っていったら、8タイトルのうち4タイトルが品切れになってしまった。在庫を切らさなければ過去最高の売上げにもなったかもしれず、惜しいことをした。
なぜ予想に反して売れたのかを考えてみると、まず今回は会場がこれまでの東京流通センター第二展示場から第一展示場に変更になったのが大きかったと思う。第二展示場では2フロアに分かれていたのが第一展示場ではより大きな1フロアにまとめられ、これまで接触がなかった層のお客さんの目に留まる機会が増えたのが売上げに繋がったのではないか。長いこと同じ雑誌を作り続けていると、自分でもどうしても昔の号は古くさく感じられるようになってしまうけれど、未知の読者には数年前のバックナンバーでも新鮮な興味を持ってもらえるという実感が得られたのはうれしいことだった。
あとこれまでは、売り場に積み重ねたそれぞれの号のいちばん上には透明のビニールカバーを付けた見本を置いていたのだけど(お客さんも他人の手が触れたものはあまり欲しくないだろうと思って)、今日はなんとなくの思いつきで、その見本を置くのをやめ、売り物の雑誌をそのまま前面に出すことにした。些細なことではあるけれど、雑然とした会場のなか、一瞬のめぐり合わせで目に留まるか留まらないか、手に取るか取らないかが決まってしまうとき、表紙がダイレクトに伝わるというのは意外と効果がある気がする。
もうひとつ、前回、前々回とほとんど売れていなかったNo.3-4が持っていった5部すべて売れたのは、売り場とは別の見本誌コーナー(来場者がじっくりと出品物を読み込める場)に見本分を置いておいたからではないかと思う(見本誌を置きだしたのも前回からなのだけど、No.3-4は今回初めて置いた)。見本誌のコーナーでそれをめくってみてくれた人が売り場に来て買ってくれたとしたら、それも内容をちゃんと確認した上での購入ということで喜ばしい。
ここ最近、家で観た映画。イワン・イワノフ=ワノ総指揮『イワンと仔馬』(1947)、ドン・シーゲル『突撃隊』(1961)、ボブ・クラーク『ポーキーズ』(1981)、同『ポーキーズ2』(1983)、ジェームズ・コーマック『ポーキーズ/最後の反撃』(1985)、和田勉『完全なる飼育』(1999)、チャン・イーモウ『初恋のきた道』(1999)、今岡信治『みだれ妻』(1999)、ジョン・カーペンター『ザ・ウォード/監禁病棟』(2010)。
『完全なる飼育』と『ザ・ウォード/監禁病棟』は前に映画館でも観たことがあった。どちらもそれなりに見応えがある映画だと思うけど、今回観たなかでは『イワンと仔馬』が出色だった。ソ連の長編アニメ。物語にそれほど深みがあるわけではないものの、画面がいきいきと躍動している。当然ディズニーなんかの影響はあるとしても、アニメーションが分野として洗練されていく以前だからこそ(たぶん)、むしろ物(絵)が動くということの魅力が日常の感覚からダイレクトに表現されているように思える。おそらくもう作品の著作権は切れていて、YouTubeに字幕なしで全編アップロードされていた。
《玉川台のアパートメント》(設計=MMAAA)を見学した。写真はMMAAAの三木達郎さん&本橋良介さんと、お二人の師である坂本一成先生。まだ工事途中で、外部の手すりが設置されていない。
中庭型の集合住宅で、以前の《ときわ台のアパートメント》(2017年12月16日)と同様、現実的な厳しい条件のなか、空間構成の工夫によって様々な場をつくりだし、組み立てている。各室のプランニングやスケール、開口の取り方なんかは、建物全体のなかでもっとなじませるというか、立体パズルの精度を高めるような余地もあったのではないかと思うけれど、法規的・経済的な条件がかなりがんじがらめだったようだし、ともかくいろいろ頑張っているという感じは伝わってくる。各住戸へのアプローチの場となる中庭の空間が好ましい。以下、写真5点。
『建築と日常』No.5(→)で掲載した《佐賀県歯科医師会館》(設計=坂本一成、2017年竣工)が「2019年日本建築学会作品選奨」に選ばれた。リンク先に選評と詳しい作品紹介のPDFが掲載されている。
選考委員がどなたか知らないが、選評は熱がこもっている。「社会に流れている意味を捉え、それを少しずらして新しい建築性を獲得する」という点を高く評価しており、おおむね共感するものの、それはあくまで「オフィス」や「ホール」の社会的形式をずらしているのであって、「医師会館」の社会的形式をずらしているのではないと思う。たとえば『建築と日常』No.0(→)で掲載した《東工大蔵前会館 Tokyo Tech Front》(設計=坂本一成、2009年竣工)と並べてみたとき、それが「大学施設/同窓会館」であるか「医師会館」であるかというような区別は、即物的な機能の面を別にすれば、設計者にとってほとんど意識にないのではないだろうか。《佐賀県歯科医師会館》は、僕が訪れたとき(2018年1月4日)の印象では、仕上げやスケールや空間構成(動線)などの複合的な意味で、正直もうすこし「医師会館」らしくてもよいのではないかと感じた記憶がある。