法政大学で開かれたシンポジウム「建築デザインにおける社会性を巡って」を聴いた。日本建築学会の建築論・建築意匠小委員会による企画で、パネリストは坂本一成・妹島和世・ヨコミゾマコト・青井哲人の4氏。告知の段階でテーマとメンバーの並びを見たときから多少予想はできたけれど、せっかくの豪華ラインナップも、シンポジウムのデザインに確たるヴィジョンがなくてもったいない。社会性というテーマを掲げているのに、企画としてそのテーマに対する切実さや真摯さや執念が感じられず、むしろイベント自体に社会性が欠けているという印象だった。
たとえば坂本先生の発表では「現代の行きすぎた社会性が建築を施設化させる」という批判が根幹にあった。そしてその後に発表されたヨコミゾさんの作品は、坂本先生にとっておそらく「施設化した建築」の範疇にあるものだろう(ご本人に確認したわけではない)。しかし両者のそのような対立性・対比性はこのイベントではすくい取られず、明るみに出ない。登壇者それぞれが言う「社会性」という言葉は全体で明確な像を結ばないまま無為なずれを拡散させ、弛緩した時間が過ぎていく。
僕がこう書くからといってヨコミゾさんの作品が良くないということではない。ヨコミゾさんの作品にはヨコミゾさんの作品なりのリアリティや必然性があり、坂本先生の作品には坂本先生の作品なりのリアリティや必然性があるはずだ(妹島さんも同様)。だからそのお二人(お三方)それぞれの活動に十分な意義を見て登壇を依頼したというのなら、その場を設定した人たちは当日の議論を想定してそれ相応の準備や仕掛けをしてしかるべきだし(少なくとも坂本先生と妹島さんは、放っておいても勝手に議論を盛り上げてくれる「サービス精神旺盛な人」でないことは明らかだと思う)、それぞれの建築家の活動のあり方にもっと興味を示して、それらの差異や固有性を自ずと探求せずにはいられないというのが本当だろう(そこから現代における建築と社会の関係も浮かび上がってくるかもしれない)。にもかかわらず有料でこれだけの聴衆を集めておいて、そういった探求の意志をうかがわせないというのは一体どういうわけだろうか。既成領域としての「大学」や「学会」というものに対する不信感をただただ募らせる。
入場料代わりの資料代1500円で配布されたプリントの束(A4用紙14枚)は、別の集まりで別の三者が発表に際して使用したパワポデータのプリントアウトであり、今日のシンポジウムの資料になるようなものではない。またもしそれを読み込みたいと思っても、プレゼン用のパワポのコピーだけで三つの発表の内容を正しく把握することは不可能だし(むしろ誤解を誘発する)、もとより縮小して出力されているので(A4用紙1枚にパワポ6ページ分)、字が小さくてところどころ読めないようにさえなっている。そんなことを普通にしてしまえる辺りも、学問に向かう根本的な態度に疑念を抱かせる。帰宅後、今日のシンポジウムについて「刺激的」「白熱」「意義深い」といった言葉がSNSで発せられるのを見て、余計にやるせない気分になった。

テレビで放送していた上田慎一郎『カメラを止めるな!』(2017)を観た。90年代の矢口史靖やSABUを思わせるポップな作風は決して嫌いではないものの、アイデアを映画として成り立たせる完成度にいくぶん物足りなさを感じた。たまたまネットや深夜テレビで目にしたならけっこう感心してしまいそうだけど、ここまでヒットして話題になるのはどうかという気がする。知っている役者が一人もいない映画でもこれだけのことができるという希望のような気持ちと裏腹に。


今日の『東京新聞』夕刊で、古谷利裕さんが国立西洋美術館「ル・コルビュジエ 絵画から建築へ―ピュリスムの時代」展(〜5/19)のことを評している。古谷さんはすこし前にもブログでコーリン・ロウ&ロバート・スラツキーの「透明性──虚と実」(初出1963年)を参照しつつ、この展覧会について書かれていた。

これも古谷さんの画家としての知識と実感に根ざした文で、とても新鮮に感じられる(僕がル・コルビュジエの絵画をめぐる言説に無知だというせいもあるかもしれないが)。これまでル・コルビュジエの絵画には特に関心がなかったのだけど、コーリン・ロウを読み返して展覧会へ行ってみたくなった。

ここ最近、家で観た映画。マーク・L・レスター『処刑教室』(1982)、ティム・バートン『エド・ウッド』(1994)、サトウトシキ『団地の奥さん、同窓会に行く』(2004)、アナ・クラヴェル『クリープショー3』(2006)、ティム・バートン『ビッグ・アイズ』(2014)。いわゆるB級という感じの映画が多かったけど、『団地の奥さん、同窓会に行く』には何かしらぐっとくるものがあった。

プリズミックギャラリー「ワイルド・エコロジー:能作文徳展」を観た(〜2/22)。能作さんの建築の実作()と理論的な側面()と太陽熱で料理したりする活動(それを展覧会で展示したりする行為)とがプロフェッショナルなレベルでどのような必然的関係にあるのか、自分のなかでまだはっきりとした像を結んでいかない。

先週金曜、朝から微妙に咳とノドの痛みがあり、夕方から次第に熱っぽくなって、夜には普通に歩くのもきつくなった。土曜は一日中部屋で寝ていて、おそらく15年か20年ぶりくらいに自宅で体温を測ったところ、39.5度。しかし横になってさえいればそれほどつらくはないし、頭が朦朧としているぶん時間が経つのも早い。日曜にはだいぶ良くなり、さらにほぼ微熱にまで快復した月曜、今度は小学校の給食の時間以来ではないかというくらいでマスクを着用して近所の病院へ行ってみると、やはりインフルエンザ(A型)に感染していると診断された。発熱後48時間以上経過しているので、もう専用の薬は効かないと言われたものの、すでに自分でも薬を服用する必要は感じない。しかし自分が誰かの感染源になってしまわないように、医者の忠告どおり、昨日まで外出を控えて部屋に籠もっていた。自分の体がふだんとは違う挙動を示したり、一日中部屋で寝ていたり、人から心配してもらったり、その心配が快復しつつある自分の病状と比べて過大であることをこそばゆく感じたりする、この非日常の病気の感じが懐かしかった。

柴崎友香『公園へ行かないか? 火曜日に』(新潮社、2018年)を読んだ。柴崎さん自身のアメリカでの3ヶ月間の滞在記。というと語弊があるのかもしれなくて、本の帯にはあくまで「連作小説集」と書かれている。しかしやはり一般的にカテゴライズするならエッセイの類いになる内容だろう。なぜ小説集とされているのか、その真意は分からないけれど、エッセイと表記すると、いかにも事実と相違ないもの、あるいは私的なもの、気軽な雑記と思い込まれてしまう窮屈さはあるかもしれない。ただ、この作品は根本的な意味でのessai(試み)の特質をよく備えているようにも思われる。ナショナリティや歴史や時代や文化や世界情勢といった超越的・観念的に認識されているものと、現実の人や言葉や風景や食べ物などの経験とを丁寧にすりあわせ、ある世界の断片を自分を媒介にして事実として記述する試み。それは私的でありながら公的であり、主観的でありながら客観的であるような文章だと思う。

性差の問題でも労働の問題でも教育の問題でも、「弱者」における権利がSNSなどで主張されるのを見ていると、「権利」と「均質空間」が、ともに近代という同じ時代に絶対化したものであることに思いを至らせられる。そこでの「権利」は、あの人にあってこの人にないというものでは役に立たないから、それがひとしくあまねく成り立つ、均質的で普遍的な空間像や世界観が前提にされている。たしかに「権利」という概念を持ちださなければ他になにも頼れるものがないという悲惨な状況は世の中に多々あるに違いないけれども、そういった具体的な状況を抜きにして抽象概念としての「権利」の存在が自律的で自明のものとして語られるとき、むしろそれぞれの場所の多様性や固有性を無視して世界を独善的に秩序づける「均質空間」という空間図式の負の側面を感じさせることがしばしばある。

去年(7月17日)読んだ『柳宗悦と民藝の哲学──「美の思想家」の軌跡』(ミネルヴァ書房、2018年)の著者である大沢啓徳さんにお目にかかり、しばらくの間、とりとめないお話をした。著書を読んで強く共感したので、こちらから連絡を取って『建築と日常』を何号か謹呈し、大沢さんからも他の論文をいくつかいただくなどしていたのだった。いずれなにかの仕事でご一緒する機会があるといい。
大沢さんからいただいたのは下記のようなテキストで、どれも哲学の専門媒体に掲載されているものの、『柳宗悦と民藝の哲学』と同様、大沢さん個人の日常的な問題意識が通底していて、そのためか決定的に読みづらいという印象がない。そういうものを僕向けに選んで贈ってくださったということでもあるだろうけど、これらのテキストも共感するところが多い。

  • 「実存的交わり・考──吃音と〈生〉という観点から」(『フィロソフィア』97号、2009年)
  • 「芸術作品の前に立つということ──ベルクソンにおける美学と倫理」(『交域哲学』8号、2013年3月)
  • 「ベルクソン哲学における「いのち」への問い──現代における「具体性」の回復のために」(『フィロソフィア』101号、2014年3月)
  • 「リクールとヤスパース」(『リクール読本』鹿島徹・越門勝彦・川口茂雄編、法政大学出版局、2016年)
  • 「「いのちをむすぶ」哲学──佐藤初女の愛と実践」(『交域哲学』9号、2016年9月)

以下、「芸術作品の前に立つということ──ベルクソンにおける美学と倫理」より。

 しかしベルクソンは、強い感情を込めて、次のように言う。「私は知性を非常に高く評価する。しかし、すべての物事をもっともらしく話す〈賢い人〉をさほど尊敬しない」。ところが残念なことに、我々の社会においては、「社会的諸概念を器用に組み合わせ実際的な認識を獲得する或る種の能力としての〈賢さ〉……この器用さがひとよりも優れていることが、精神の優越さであるとされるのだ」。

インターネットのGYAO!で、いまおかしんじ監督の『かえるのうた』(援助交際物語──したがるオンナたち、2005)と『おじさん天国』(絶倫絶女、2006)が無料公開されていたのを観た。どちらも7〜8年前に一度観ている。2作をあえて対比すると、リアリスティックな作品とファンタスティックな作品。ともにいまおかしんじらしい作品で味わい深いけれど(この二面性はホン・サンスの作品にもある)、この2作だと、僕の好みは『かえるのうた』のほうにあるだろうか。一昔前の下北沢が下北沢らしく写っていて懐かしい。

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『たかぎみ江 作品集 1993-2018』(監修・編纂=平塚桂、A5判、96ページ、2019年1月6日発行、非売品)を読んだ。去年の9月に亡くなった、たかぎみ江さん(ぽむ企画)の文章やイラスト、活動の足跡の紹介と、関係が深かった人たちの寄稿文によってまとめられている。僕はたかぎさんとは10年ほど前に一度会って話をしただけなのだけど、その後たかぎさんに書いていただいた『建築と日常』No.2()でのアンケートの回答文「建築は誰のものか」が収録された関係で、1冊送られてきた。
ぽむ企画の相方である平塚桂さんは、たかぎさんについて下のように書いている。

 このように何ごとも自分のフィルターを通し、すぐれた表現へと昇華していた一方で、世に広く認められたいという欲求は、あまりうかがえなかった。学部時代のレポートも、自らの披露宴も、企業広報も、家族にあてたノートも、み江さんの“作品”というのは、一貫して目の前の人を惹きつけ、喜ばせるためにあった。それは仕事の共同者からすると歯がゆく感じることも多かったのだが、おもえばそれも、作品の懐の深さや普遍的な魅力につながっている気がする。

  • 平塚桂「作家 たかぎ み江 について」『たかぎみ江 作品集 1993-2018』

僕自身たかぎさんのことをよく知らないなりに、「歯がゆく感じる」という言葉の重みも含めて、この指摘には共感できる気がする。ある種のアマチュアリズムの脱領域性や強い主体性、日常性が、たかぎさんの仕事の基礎にはあったのだろうと思う。そういう人は建築のメディアであまりいない。

ここ最近、家で観た映画。ロバート・アルドリッチ『何がジェーンに起ったか?』(1962)、サミュエル・フラー『ショック集団』(1963)、鈴木清順『東京流れ者』(1966)、同『けんかえれじい』(1966)、スタンリー・キューブリック『2001年宇宙の旅』(1968)、田中登『牝猫たちの夜』(1972)、フランシス・フォード・コッポラ『ワン・フロム・ザ・ハート』(1982)、クリント・イーストウッド『ハドソン川の奇跡』(2016)。

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アテネ・フランセ文化センター(設計=吉阪隆正+U研究室、1962年竣工)で、いまおかしんじの『彗星まち』(獣たちの性宴 イクときいっしょ、1995)と『デメキング』(痴漢電車 弁天のお尻、1998)を観た。「映画一揆外伝~極楽篇~」としての特集上映。監督のデビュー作と第3作で、どちらも時代を感じさせるけど、『デメキング』のほうはすでにその後のいまおか作品の原型ができているように見える。
上映の合間に行われたトーク(いまおかしんじ×井土紀州)では、いまおか監督が「今日上映されている初期作ほど今は一作一作にすべてを懸けられなくなった」ということを言っていた。しかし創作以外の「運動」に寄ることもなく「孤独」に作品を作り続けることは、いまおか作品の本質に通底して、観客を惹きつける根拠にもなっていると思う。下記、会場で配布されたフリーペーパーより。今年公開予定の自主製作『れいこいるか』も期待。

もう過去のことは忘れて、今からだよ、スタートは。そしたら君らと一緒なんだよ。これから映画を作る人と同じ。キャリアがあったってさ、そんなの何の足しにもならないよ。だって、今までやってきたことは害にしかならないもん。ますますテンション上がることが少なくなってきてるから。一回目より二回目はテンション下がるでしょ? てことは、やったらやっただけ下がる。初めてやる人と勝負したら負けるよ。だから、今までと違うこと、初めてのことをやらなきゃいけないんだ。(いまおかしんじ)

  • 『破れかぶれ』第12号、2019年1月12日発行

岡﨑乾二郎さんのトークイベント「近代芸術はいかに展開したか?その根幹を把握する。」に参加した。新刊『近代芸術の解析 抽象の力』(亜紀書房、2018年)の刊行記念として、青山ブックセンター本店で開かれたもの。本当は事前に書店で本を受け取って読み込んでおきたかったのだけどままならず。きちんと時間をとって向き合わないといけない。

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《緑ヶ丘の住宅》(設計=長谷川逸子、1975年竣工)を訪問。取り壊しを目前にした最後の見学会(→概要&平面図)。長方形の平面を中央の壁が斜めに二分する。その(間取りとして機能的でもある)1枚の壁の傾きによって建築全体の空間が定型を外され、体験者の知覚が揺さぶられ、事物が活性化する。造り付けのベンチや大橋晃朗さんによる家具などの共通点も含めて、建築の抽象化されたあり方に同時期の坂本先生の作品──《雲野流山の家》()や《代田の町家》()と似たものが感じられるけど、どちらかというと坂本先生のほうがまだ慣習的な空間性が残っていて、長谷川さんはより抽象度が高い。その空間構成の自由さが、ある種の「建築の解体」を進めた長谷川さんの80年代の展開の原動力になっているようにも思われる。
以下、写真3点。斜めの壁による空間性を写真で捉えるのは極めて難しい。人物を外すよりむしろ利用したほうが、空間の立体感やダイナミズムを表現するのにうまくいくかもしれない。 続きを読む