去年(7月17日)読んだ『柳宗悦と民藝の哲学──「美の思想家」の軌跡』(ミネルヴァ書房、2018年)の著者である大沢啓徳さんにお目にかかり、しばらくの間、とりとめないお話をした。著書を読んで強く共感したので、こちらから連絡を取って『建築と日常』を何号か謹呈し、大沢さんからも他の論文をいくつかいただくなどしていたのだった。いずれなにかの仕事でご一緒する機会があるといい。
大沢さんからいただいたのは下記のようなテキストで、どれも哲学の専門媒体に掲載されているものの、『柳宗悦と民藝の哲学』と同様、大沢さん個人の日常的な問題意識が通底していて、そのためか決定的に読みづらいという印象がない。そういうものを僕向けに選んで贈ってくださったということでもあるだろうけど、これらのテキストも共感するところが多い。

  • 「実存的交わり・考──吃音と〈生〉という観点から」(『フィロソフィア』97号、2009年)
  • 「芸術作品の前に立つということ──ベルクソンにおける美学と倫理」(『交域哲学』8号、2013年3月)
  • 「ベルクソン哲学における「いのち」への問い──現代における「具体性」の回復のために」(『フィロソフィア』101号、2014年3月)
  • 「リクールとヤスパース」(『リクール読本』鹿島徹・越門勝彦・川口茂雄編、法政大学出版局、2016年)
  • 「「いのちをむすぶ」哲学──佐藤初女の愛と実践」(『交域哲学』9号、2016年9月)

以下、「芸術作品の前に立つということ──ベルクソンにおける美学と倫理」より。

 しかしベルクソンは、強い感情を込めて、次のように言う。「私は知性を非常に高く評価する。しかし、すべての物事をもっともらしく話す〈賢い人〉をさほど尊敬しない」。ところが残念なことに、我々の社会においては、「社会的諸概念を器用に組み合わせ実際的な認識を獲得する或る種の能力としての〈賢さ〉……この器用さがひとよりも優れていることが、精神の優越さであるとされるのだ」。

インターネットのGYAO!で、いまおかしんじ監督の『かえるのうた』(援助交際物語──したがるオンナたち、2005)と『おじさん天国』(絶倫絶女、2006)が無料公開されていたのを観た。どちらも7〜8年前に一度観ている。2作をあえて対比すると、リアリスティックな作品とファンタスティックな作品。ともにいまおかしんじらしい作品で味わい深いけれど(この二面性はホン・サンスの作品にもある)、この2作だと、僕の好みは『かえるのうた』のほうにあるだろうか。一昔前の下北沢が下北沢らしく写っていて懐かしい。

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『たかぎみ江 作品集 1993-2018』(監修・編纂=平塚桂、A5判、96ページ、2019年1月6日発行、非売品)を読んだ。去年の9月に亡くなった、たかぎみ江さん(ぽむ企画)の文章やイラスト、活動の足跡の紹介と、関係が深かった人たちの寄稿文によってまとめられている。僕はたかぎさんとは10年ほど前に一度会って話をしただけなのだけど、その後たかぎさんに書いていただいた『建築と日常』No.2()でのアンケートの回答文「建築は誰のものか」が収録された関係で、1冊送られてきた。
ぽむ企画の相方である平塚桂さんは、たかぎさんについて下のように書いている。

 このように何ごとも自分のフィルターを通し、すぐれた表現へと昇華していた一方で、世に広く認められたいという欲求は、あまりうかがえなかった。学部時代のレポートも、自らの披露宴も、企業広報も、家族にあてたノートも、み江さんの“作品”というのは、一貫して目の前の人を惹きつけ、喜ばせるためにあった。それは仕事の共同者からすると歯がゆく感じることも多かったのだが、おもえばそれも、作品の懐の深さや普遍的な魅力につながっている気がする。

  • 平塚桂「作家 たかぎ み江 について」『たかぎみ江 作品集 1993-2018』

僕自身たかぎさんのことをよく知らないなりに、「歯がゆく感じる」という言葉の重みも含めて、この指摘には共感できる気がする。ある種のアマチュアリズムの脱領域性や強い主体性、日常性が、たかぎさんの仕事の基礎にはあったのだろうと思う。そういう人は建築のメディアであまりいない。

ここ最近、家で観た映画。ロバート・アルドリッチ『何がジェーンに起ったか?』(1962)、サミュエル・フラー『ショック集団』(1963)、鈴木清順『東京流れ者』(1966)、同『けんかえれじい』(1966)、スタンリー・キューブリック『2001年宇宙の旅』(1968)、田中登『牝猫たちの夜』(1972)、フランシス・フォード・コッポラ『ワン・フロム・ザ・ハート』(1982)、クリント・イーストウッド『ハドソン川の奇跡』(2016)。

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アテネ・フランセ文化センター(設計=吉阪隆正+U研究室、1962年竣工)で、いまおかしんじの『彗星まち』(獣たちの性宴 イクときいっしょ、1995)と『デメキング』(痴漢電車 弁天のお尻、1998)を観た。「映画一揆外伝~極楽篇~」としての特集上映。監督のデビュー作と第3作で、どちらも時代を感じさせるけど、『デメキング』のほうはすでにその後のいまおか作品の原型ができているように見える。
上映の合間に行われたトーク(いまおかしんじ×井土紀州)では、いまおか監督が「今日上映されている初期作ほど今は一作一作にすべてを懸けられなくなった」ということを言っていた。しかし創作以外の「運動」に寄ることもなく「孤独」に作品を作り続けることは、いまおか作品の本質に通底して、観客を惹きつける根拠にもなっていると思う。下記、会場で配布されたフリーペーパーより。今年公開予定の自主製作『れいこいるか』も期待。

もう過去のことは忘れて、今からだよ、スタートは。そしたら君らと一緒なんだよ。これから映画を作る人と同じ。キャリアがあったってさ、そんなの何の足しにもならないよ。だって、今までやってきたことは害にしかならないもん。ますますテンション上がることが少なくなってきてるから。一回目より二回目はテンション下がるでしょ? てことは、やったらやっただけ下がる。初めてやる人と勝負したら負けるよ。だから、今までと違うこと、初めてのことをやらなきゃいけないんだ。(いまおかしんじ)

  • 『破れかぶれ』第12号、2019年1月12日発行

岡﨑乾二郎さんのトークイベント「近代芸術はいかに展開したか?その根幹を把握する。」に参加した。新刊『近代芸術の解析 抽象の力』(亜紀書房、2018年)の刊行記念として、青山ブックセンター本店で開かれたもの。本当は事前に書店で本を受け取って読み込んでおきたかったのだけどままならず。きちんと時間をとって向き合わないといけない。

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《緑ヶ丘の住宅》(設計=長谷川逸子、1975年竣工)を訪問。取り壊しを目前にした最後の見学会(→概要&平面図)。長方形の平面を中央の壁が斜めに二分する。その(間取りとして機能的でもある)1枚の壁の傾きによって建築全体の空間が定型を外され、体験者の知覚が揺さぶられ、事物が活性化する。造り付けのベンチや大橋晃朗さんによる家具などの共通点も含めて、建築の抽象化されたあり方に同時期の坂本先生の作品──《雲野流山の家》()や《代田の町家》()と似たものが感じられるけど、どちらかというと坂本先生のほうがまだ慣習的な空間性が残っていて、長谷川さんはより抽象度が高い。その空間構成の自由さが、ある種の「建築の解体」を進めた長谷川さんの80年代の展開の原動力になっているようにも思われる。
以下、写真3点。斜めの壁による空間性を写真で捉えるのは極めて難しい。人物を外すよりむしろ利用したほうが、空間の立体感やダイナミズムを表現するのにうまくいくかもしれない。 続きを読む

小津安二郎の『お茶漬の味』(1952)、『早春』(1956)、『東京暮色』(1957)を観た。3作とも、去年まとめて観た小津の作品(9月13日)よりも人間の負の側面の描写が強い。社会的に規定された人間(男女/家族)の過ちやすれ違いの生々しさ、切実さは、かたちは違うとはいえ、ベルイマンやカサヴェテスの作品におけるそれにも比肩しうるかもしれない。一般に小津の映画というと、小市民の平凡な生活を淡々と描いていると思われがちだけれども、そう思われて不思議ではない安定した下地があるからこそ、より感情的な様々な事柄も際立ってくるといえるだろうか。どれも同じような形式主義的な作品に見えて、だからこそ個々の作品ごとの差異がそれぞれの存在を明確に特徴づける。一にして多、多にして一。

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昨日海岸で撮った写真。これも900×600pixelでアップロードしているのだけど、この新しいブログ上では縮小して表示されてしまい、なんとなく物足りない(写真をクリックすると拡大表示される)。という一方で、去年の11月に買ったスマホの画面で古谷さんのブログの写真()を見てみたら、表示サイズが小さいことがマイナスになっておらず、むしろプラスにさえなっているように感じられた。古谷さんの写真については昔「10+1 website」のアンケートで、抽象という言葉をキーワードに言及したことがあったけれど()、その抽象ということと、画面が小さくても成り立つということには関係があるのかもしれない。去年書いた(1月15日)熊谷守一の絵が小さいということにも繋がりそうな気がする。
以下、写真4点。 続きを読む

平成最後の正月休み。毎年恒例のように実家の近くの海岸を散歩した。今年はいつもの一眼レフのカメラに加えて2ヶ月前に初めて購入したスマホも持っており、ふと動画を撮ってみる気になって、さらにそれをその場でツイッターにアップしてみるなどした。

初心者のわりにけっこうよく撮れたと思っていたけど(序盤に写った女性が終盤ふたたび画面に入ってくるところとか)、パソコンの大きな画面で見てみると、回転の速度が速すぎて目が落ち着かない。撮っているときは、あまり回転を遅くすると水平の動きがぶれたり、時間がかかるぶんデータ量が増して扱いづらくなったりする気がしていた。
しかし一眼レフにも動画撮影の機能は付いているのに、どういうわけかそちらはあまり使ってみる気にならない。静止画ならばそれなりにきれいな映像が撮れるけど、動画で同じ完成度を出すにはよりテクニックが必要になるからかもしれない。その点、スマホは動画でもより気楽なツールとして、雑に使ってみることができる。いずれにせよ建築なり空間なりを写すのに動画という形式の可能性を無視できなくなりつつある。

2009年の雑誌創刊時から利用してきた「はてなダイアリー」(http://d.hatena.ne.jp/richeamateur/)がまもなくサービスを終了させるということで、このブログを「はてなブログ」(https://richeamateur.hatenablog.jp/)に移転した(というか移転するまえに元のサイトで移転の予告をすべきだったかもしれない)。去年刊行した号外『建築と日常の文章』()で、このブログについては一応のまとめをしていたので、ちょうどよい切り替えのタイミングだった気もする。しかしそこまで心機一転というふうでもなく、これまでの2000件超の記事もほぼそのままこちらに移行し、以前の「はてなダイアリー」の個々の記事へのリンクはダイレクトで「はてなブログ」の該当するページに飛ぶようになっている(だから以前のサイトにはもうアクセスできない)。
新サイトはスマホ版はこれまでよりだいぶ見やすくなったようだけど、パソコン版はまだなんとなく違和感がある。しばらく経っても違和感が消えなければ、できる範囲でデザインの調整を試みてみたい。以前のサイトでは写真はオリジナルのサイズで大きく掲載されるように設定していたのが、現状ではテキストと同じ幅に固定されるようになってしまっている。またテキストは、段落と段落の間にあったウェブ特有の若干の空きがなくなっている。そのへんが特に気にかかる。

山下敦弘・今泉力哉『午前3時の無法地帯』(2013)、山下敦弘『味園ユニバース』(2015)、同『オーバー・フェンス』(2016)をDVDで観た。『オーバー・フェンス』は、三宅唱『きみの鳥はうたえる』(10月1日)と同じく佐藤泰志(1949-1990)の小説が原作。どちらの映画もそれぞれの監督らしい作品になっているとともに、同じ原作者による作品であることが観ていて確かに察せられる。若さをめぐる儚い空気感というか。
ただ、『きみの鳥はうたえる』を観た後だと、『オーバー・フェンス』は登場人物が今一その作品世界に息づいていないような気もしてしまった。主役のオダギリジョーの浮き世離れした感じはそもそもミスキャストのように思えるし(義理の弟役だった吉岡睦雄のような人を主役にして映画を成り立たせられたら、本当に傑作になったかもしれない)、蒼井優は大女優らしい貫禄すら感じさせて、それはそれで魅力的だとはいえ、作品全体のあり方と調和していたかというとどうかと思う(蒼井優に関しては演技や演出というより脚本レベルの問題かもしれない)。『苦役列車』(2012)の森山未來や『もらとりあむタマ子』(2013)の前田敦子、今回観た『午前3時の無法地帯』の本田翼、『味園ユニバース』の渋谷すばるなど、山下敦弘は個々の役者の特性を引きだし、有機的・全一的な作品として昇華させることに長けた監督だろうし、この作品も他の人物たちの生かし方はみなよいと思うのだけど(『オーバー・フェンス』も『きみの鳥はうたえる』も、脇役にすぎない嫌なやつを嫌なやつとして生々しく描きつつ、その存在を認めて居場所を与える)、主役のふたりに妙に引っかかってしまった。
とはいえ今回観た3作のなかでは『オーバー・フェンス』がいちばん見応えがあると言えると思う。『味園ユニバース』も悪くはなかったし(物語がやや大味だった)、『午前3時の無法地帯』は共同監督であるにしても、3作のうち最も山下敦弘らしい作品と言えるかもしれない(すこし長すぎると思ったら、そもそも全12話のウェブドラマだったらしい)。


東京都葛西臨海水族園12月24日)の6年後に竣工した葛西臨海公園展望広場レストハウス(設計=谷口吉生、1995年竣工)。駅からのアプローチではこちらのほうが先に軸線上に見えてくる。建物の向こう側はまだ200メートルくらい公園の陸地が続いてから東京湾に至るのだけど、建物の手前がなだらかな上り坂、その奥は逆に下っていることで、向こう側の景色が予想できず、この建物があたかも領域を区切る透明な境界線であるかのように感じられる。その目を見張るほどの透明感・軽快感は、単にガラス張りだからというだけでなく、建物のプロポーションや部材の構成方法とも関係しているのかもしれない。
ただ、そうした外観の魅力の一方で、内部に入ってみると白色系の仕上げに部分的な汚れや痛みが多く目についた。これは東京都の管理の問題でもあるにせよ、敷地は海を臨む吹きさらしのような場所だし、設計者はすでにこの建物以前に水族館のほうを手がけてもいたのだから、設計の段階でメンテナンスの大変さは十分予想できただろうとも思われる。ガラス張りの温室のようなつくりなので、夏の暑さもかなり厳しい気がする。そのあたりの大胆な割り切りをどう捉えるか。
以下、写真4点。谷口吉生さんの建築は、水平垂直のいわゆる建築写真向きだと思う。アマチュアだとボロが出やすい(そう考えると谷口吉郎の建築は、杓子定規の水平垂直だとその空間の質を捉え損ねるようなものかもしれない)。

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葛西臨海公園駅のホームから見た東京都葛西臨海水族園(設計=谷口吉生、1989年竣工)。じつはこれまで行ったことがなかったのだけど、谷口父子に対する最近の関心の高まりに加え、すこし前に建て替えの可能性が報道されたこともあり、クリスマス・イブの日に訪れてみた。今年初め(1月20日)に行った東京国立博物館法隆寺宝物館(設計=谷口吉生、1999年竣工)は、建築自体は極めて高い完成度でできているものの、それが上野という場所を訪れるさまざまな文化的属性の人たちの衣服や身体とどう調和するかという点に疑問があったのだけど、この水族館はそもそもがより大衆向けの用途であることも関係してか、そういう疑問は抱かせない。建築的にいちばんの見せ場であるガラスのドームとそこまでのアプローチは、むしろ建築の古典的・超越的なありようが現代の大衆性をしっかりと受け止めているように感じられ、まったく今さらながら見事なものだと思った。水平性の強い低いゲートをくぐって軸線上の幾何学形態に至るという構成は、たまたまつい先日(8月31日)訪れたという僕の先入観も大きく作用しているだろうけど、谷口吉郎設計の千鳥ケ淵戦没者墓苑(1959年竣工)を思い起こさせる。以下写真4点。

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